福西です。
ウェルギリウス『アエネーイス』(岡道男・高橋宏幸訳、西洋古典叢書)を読んでいます。
7巻の249~639行目を読みました。
ユーノーの暗躍と、それに翻弄される地上の人間たちの心理・行動が描かれます。
ユーノーは冥府から復讐女神アッレクトーを召喚します。
7.312
flectere si nequeo superos, Acheronta movebo
天上の神々の心を靡かせることができなければ、アケロンを動かそう
アケロンは地下、冥府のことです。
この詩行は有名で、無意識の存在を論じたフロイトの、『夢判断』のエピグラフにもなっているほどです。
ユーノーは、これまでは嵐の神アエオルス(1巻)や愛の女神ウェヌス(4巻)の力を借りました。それでもアエネーアスのイタリア上陸を止めることはできませんでした。
そこで、ユピテルの運命(ローマが興ること)を遅延させるために、とうとう「禁じ手」にまで手を出したのです。
ユーノーによって行動の自由を得たアッレクトーは、第一に、王妃アマータの心に火をつけます。アマータはバックスの信女のように狂い、森で松明を振り回して、母親たちを扇動します。
7.402-5
「ラティウムの母たちよ、みな、その場で聞くがよい。(…)母の権利を思って心が痛むなら、髪の毛を留めるリボンを解け。我が狂乱の秘儀に加われ。」
このような様子で、森の中といわず、野獣の棲む荒れ地の中といわず、どこへでも女王をバックスの突き棒でアレクトは追い立ててゆく。
まるでメガホンを構える抗議集会のようです。
(これは現代の小説なら、「アマータは、なぜかわからないが、それをしてしまった」と書くところでしょう。もともとしたかったけれども、理性で抑え込んで、できずにいた行為。それを神話では「(彼女にふさわしい)神がそうさせた」と説明がつけられます)
アマータは、ラウィニアの結婚相手には、アエネーアスではなく、トゥルヌスを望んでいるのでした。
直接書かれていませんが、ラティーヌス王がアマータの説得に失敗していることが伺えます。
(その2)へ続きます。
山下です。
大事な個所をわかりやすく解説してくださっています。もう3年たつのですね。
アマータの扇動は、第5巻後半の婦人たちによる放火騒動(トロイアの艦隊に炎を投げ込む)を思わせます。
炎といえば、ウェヌスはディードーの心に恐ろしい愛の炎を投げ込み、彼女を骨の髄まで焦がして滅ぼしました。比喩としての炎のモチーフは作中随所に顔を出します。
一方、ディードーに別れを告げるアエネーアースの言い訳は空疎に響き、また、アマータを抑えきれないラティーヌス王は、存在そのものが驚くほど軽く、優柔不断です。
個人的に、なぜラティーヌス王がああいう風に描かれるのか、不思議でなりません(これは以前大吾先生と読書会をしていたとき、よく話題に上りました)。
以上個人の感想を羅列しただけですが、数えきれない、様々なエピソードの一つ一つが、一見ばらばらのピースのように見えて、読み手の着眼によってそれらが一つに絵としてまとまって見えることもあり、読み手によって、また、同じ読み手でも読むときによって、さまざまな印象を万華鏡のように与えてくれる、くめども尽きぬ作品だと感じます。
続きのご報告も楽しみにしています。
こんばんは。バックスの女王を突き棒で追い立てるというのは、ボナデアがワインを飲んでいて銀梅花の杖で打たれて死んだという話を思い出します。ディードーは最後に焼死してしまうそうですが、カルタゴの最期や、その時ハスドルバルの妻が燃え盛る街に身を投げた話とすごく被るなあと感じます。
ところで山下先生の疑問点が書いてあるかどうかわかりませんが、タイトルだけ見て面白そうな論文を見つけました。
On the Weak King according to Vergil: Aeolus, Latinus, and Political Allegoresis in the Aeneid
https://www.jstor.org/stable/vergilius1959.61.97
全然的外れだったりもうご存じでしたらすいません。
山下です。
論文のご紹介をありがとうございました。
アエオルスとラティーヌスの比較は思いもつきませんでした。
相違があるとすれば、ユーノーはアエオルスに直接働きかけるのに対し、ラティーヌス王の国に対しては、王でなく王妃アマータに働きかけるという点があげられます。また、アエオルスが王として統率力に欠ける面があっても、読者たるローマ人にはさほど気にはならないのに対し、ラテン語の由来ともいえるラティウム王が優柔不断ではローマ人はあまり胸を張れない気持ちになるのではないか、と思いました。
何か面白いことが書いてあったなら良かったです。
ラティウムというと、共和政ローマが初期にラティウム同盟(当時はそういう名前はなく後付けの名称のようです)を吸収してしまっていますね。
確かにローマはラティウムに建設されたのかもしれませんが、そういう意味では、ラティウムはローマの敵であったとも言えるかと思いますので、ローマ人にとっては、ラティウム王がしっかりしていなくても、そんなに違和感があったのかなあという気がします。
アエネーイスはほとんど知らないので(すいません)、単なる思いつきです(これもすいません)。
山下です。
コメントをありがとうございました。
「アエネーイス」のポイントは、今の(=2千年前の)ローマ人のルーツは、栄えあるトロイア人(アエネーアース)とラティーヌス王の娘、すなわちラティーニー人(ラテン人)ラウィーニアの結婚にさかのぼる、という点です。ラティーニー人は質朴剛毅な美点をもつことが「アエネーイス」でも示されています。(なのになぜ王様はああも存在感の希薄な描かれ方をするのか?というのが積年の疑問です。もちろん年老いたこの王様が表舞台から雲隠れすることにより、ラティーニー人代表を若き英雄トゥルヌスが務めることになり、アエネーアース対トゥルヌスの構図が鮮明になるわけですが)。
こちらこそ単なる思いつきに返信して頂いてありがとうございます。
西洋古典叢書のリウィウス第一巻を見てみました。冒頭にアエネアスとラティヌスのエピソードは2種類あると書かれていて、ラティヌスが戦って負けるパターンと、アエネアスが放浪していると聞いて暖かく迎え入れるというもので、後者の方では立派な印象を受けます。p.9の註には、アエネアス伝説ではトロイア人と原住民の混血によってラテン人が生まれたことが前提である(ので先住民はラテン人とするのはおかしい)となっています。確かにLiv.1.2でアエネアスが原住民との一体感を高めるために、ラテン人と呼ぶことにしたとあります。そう考えると、あくまでラテン人の先祖はアエネアスなので、ラティヌスがあんまり目立っては詩の構成上邪魔になると思ったのかなあ、と感じます。
また、ローマの歴史をなぞっているのではないか、という印象を受けました。ラティヌスの娘と結婚したのは、後にローマがラティウムを従えることを示しているのかなあ、と。ディードーの焼死からの浅い発想ですが。