福西です。このクラスでは、前半には本読みと漢字に隔週で取り組み、後半にはお話作りをするというスタイルをとっています。ただこのときは、イレギュラーながら、私の方に伝えたいことがあったので、二週連続で漢字の取り組みをしました。
10/19
(ひらがなのもとになった漢字)
(カタカナのもとになった漢字)
ひらがなは平安時代に使われるようになったわけですが、それまではというと、日本には文字といえば渡来人より伝わった「漢字」しかありませんでした。
ではどうやってひらがながないのに、和歌や手紙を表していたかというと、これが当て字によります。たとえば「者」を「は」と読んだり、「毛」を「も」と読んだりしていました。(なので、見た目は漢文の中に、実際には音だけで意味がない字が混じることになります)
最初は上の表を使ってクイズを出し、そのあとで自分たちでも暗号手紙を書いてもらいました。
1)安利加止宇
2)己无仁知波
3)散与宇奈良
どうでしょうか。お分かりになるでしょうか?(^^)
#3)はカタカナです。
さて、古今和歌集の序文に、紀貫之の「仮名序」と、紀淑望の「真名序」という、有名な二種類の序文があります。「仮名序」の方がひらがなで主に書かれ、「真名序」の方は漢文です。とくにこの日は、「やまとうたはひとのこころをたねとして」ではじまる、仮名序の方を紹介しました。
はなになくうぐひす、みずにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めにみえぬおにがみをもあはれとおもはせ、をとこをむな(男女)のなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり。
(『古今和歌集』仮名序、紀貫之)
意味はいつか大人になった時に汲み取ってもらうこととして、(それでも「はなになくうぐいす」は今でも分かると思います)、ひらがなが生まれたころの日本人の文章を実際に目にしてもらうというのが目的でした。(正直、ひらがなばかりでも、これはこれで読みにくいもんだなあというのが実感でした。)
ところで、生徒たちは今、小学校で一つずつ新しい漢字を覚えています。その習いたての字を誇らしく思いながら、お話づくりでも文章を組み立ててくれているわけですが、時にうっかりした当て字を書いてしまうことがあります。
けれどもそうした経験は「恥ずかしいこと」ではなくて、むしろ「表現したい」という気持ちをどこに流し込んだらいいのか、その「器」にあたるものを探している時期なのだろうと私は思います。仮に、漢字というものを持ったばかりの昔の人たちも、たくさんそれを書いて試してきた結果、今の日本語というものが成り立っているのだとすれば、私たち個人の中でも、覚えたての漢字を書くということは、時代を超えて、あるいはその時間を縮めて追体験しているのではないかという気がします。
クイズの答・・・ 1)ありがとう、2)こんにちは、3)サヨウナラ
10/26
この日は、万葉集の中に納められている 額田王の歌(1巻16歌)を最初に見ました。先週とは逆に、今度は漢字ばかりの歌で、これはこれでまた、すごく読みにくいものでした。けれどもそれは裏を返せば、不便な思いよりも、表したいものへの気持ちの方が勝ったということなのでしょう。それ以前には文字を持たなかった日本人にとっては、どれだけ「漢字」というものがありがたいものだったのだろうかと、当時の人の原体験に思いをはせながら話をしました。
さて、額田王の歌は、春と秋のどちらが好きかという問いに対して、「やっぱり私は秋が好きです」と答えた歌です。授業では、それのひらがなに直した文か、もとの漢字のままの文か、どちらか好きな方を選んで書き写してもらいました。すると、生徒たち三人は三人とも、漢字の方を選んでくれました。以下のものがそれです。
冬木成 春去来者 不喧有之
鳥毛来鳴奴 不開有之
花毛佐家礼抒 山乎茂
入而毛不取 草深
執手母不見 秋山乃
木葉乎見而者 黄葉乎婆
取而曽思努布 青乎者
置而曽歎久 曽許之恨之
秋山吾者
(『万葉集』一巻十六番、額田王)
やたら読みづらく、「うわ」という感じですよね(笑)。ただ、これが私たちの通ってきた道であることに違いはありません。それを素読と同じように意味は分からずとも「追体験しているんだ」という気持ちで書いてもらいました。そのあとで、最初に挙げた、ひらがなやカタカナの表と見比べっこしながら、今でも十分読めそうな漢字に印をつけてもらいました。(「木の葉」とか「秋山」とか、だいたい半分ぐらい見つかりました)。
そのような取り組みのあと、後半は漢字カードを作ってもらいました。
この時の集中力は、まるで研究室にいるような雰囲気で、「すごいなあ」と、とても感心しました。
このような作品ができあがっています。(写真を拡大してご覧ください)
これらは、もし年下の親せきに教えることがあったり、山の学校の下の学年の生徒が「これを辞書に使って勉強してくれるとしたら…」ということを想像しながら、書いてくれています。実際、「ここが間違いやすいよ」とか、「このカードの中にクイズのヒントが隠されているよ」というような、一つ一つ工夫が見られます。それには想像力の発露ともいうべき、「作り手の気配り」を感じる次第です。