福西です。
クマのプーさんえほん(ミルン、石井桃子訳、岩波書店)の、『8 プーのたのしいパーティー』を、先週の続きから読みました。
そのあと、『9 イーヨーのあたらしいうち』を読みました。あらすじについてはこちらの記事をご覧ください。
ところで、『クマのプーさん』の鑑賞では、本で味わうにまさる楽しみはないと感じます。
『イーヨーのあたらしいうち』の冒頭で、プーはコブタの家に遊びにいきます。けれども留守だったので、自分の家に帰ります。するとプーの家に、暖炉を赤々とたいて、椅子にくつろいでいるコブタがいます。以下は、その時のやり取りです。
じぶんのいちばん上等のいすにこしかけこんでいるコブタを発見したときには、とてもびっくりしました。いったい、ここは、だれの家なんだろうとかんがえてしまったのです。
「やァ、こんちは。」と、プーはいいました。「きみ、でかけてるのかとおもったよ。」
「ちがうよ、プー。」と、コブタはいいました。「でかけてたのは、きみさ。」
「そうだった。」と、プーはいいました。「どっちかひとりでかけてるとは、おもってたんだ。」
プーには、「プーの家にコブタがいる」という現象が、「コブタは家から一歩も出かけていない」と認識されます。
それで、「でかけているのかとおもった」(けど、でかけていなかったんだね)と発言します。
一方、コブタには、「プーに会いに来たけど留守だった。おじゃまして、家で待たせてもらうことにした」と経験されています。
それで、出先から帰ってきたプーを見て、「でかけてたのは、きみさ」と言います。
本当はコブタも出かけていたことにはなるのですが、こだわらずに納得してしまうのが、プーらしいです。こういうところがユーモアですね。
また、コブタは、プーがコブタの家にいっていたことを知りません。プーが言わなかったからです。けれども言わなくても、読者の頭の中では了解済みです。それで、あたかもコブタが了解済みであるかのように錯覚されます。
物語では、プー視点で、コブタに会いたくなった時のプーの行動を追って書かれています。
その行間で、読者はちょうどコブタもプーに会いたくなって行動したことを知ります。
同じことを思いついたから、二人はすれ違ったのだと。
すれちがいの理由が、
「二人とも会いたかったから」
というのが、書かれていないことの味わいだと思います。
あんと素敵じゃありませんか!?
(この小さなすれちがいが、この物語の本題である、もう一つのすれちがいにつながります。すなわち、「イーヨーの家を壊してイーヨーの家を建てる」ということの前振りになっています)
ちなみに、コブタがプーの家にあがっていたのは、その日が雪で、寒かったらです。
コブタは寒がりです。もしプーのように平気だったら、コブタがプーの家で待つこともなく、なかなか会えなかったことでしょう。
二人の違いが、二人の会えるきっかけにもなっています。