福西です。
(その1)の続きです。
彫像にとってじぶんが重要な人になりたいと思いました。じぶんで、このなぞをとこう!
今回は、この表現について、立ち止まって考えてみます。
ふつうなら、「このペンは私にとって大切です」と言うように、
「彫像は自分にとって重要なものです」
となるはずです。
しかし、本文は、
「私は彫像にとって重要になりたい」
という意味です。
彫像と自分とが逆転していますね。
クローディアに直観されたのは、まさにこうした主客の「逆転」なのでした。
「天使像からも重要な人に思われたい」
という、クローディアの願い。
自分が相手(天使像)を重要だと思うだけでなく、相手(天使像)も自分のことを重要だと思ってほしい、と。
この願い、何かに似てませんか?
そうです。
「恋心」です。「片想い」です。
クローディアにとって、言葉にはできないほどの、大切な「何か」。
それは、
「天使像と両想いになりたい!」
という、切ないまでの憧れ(希望)なのです。
その、居ても立ってもいられなさが、
「じぶんで、このなぞをとこう!」
となったのです。
「なぞ」を解くという経験は知的なものですが、その先にあるものは、天使像をめぐる「神秘的な経験」です。
次の章で、クローディアはこうも告白しています。
「あたし、あの天使をだきしめたいわ」
「だきしめてみれば、今までわからなかったことがわかってくるものなのよ。たいせつなことがね」
と。
クローディアにとって、天使像とは、
「頭で考えることのできない何か」
であり、
「この旅で持ち帰りたい秘密」
です。
また、3章で、フランクワイラー未亡人はこう書いています。(クローディアとジェイミーが「家族になった」と感じた箇所です)。
何かが、まさにその瞬間に起こりました。(…)私は、何が起こったかを知っています。ふたりにはいいませんでしたけれどね。なんでもかんでもことばや文章にあらわそうとするのは、あまりに近代的すぎます。とくにクローディアには、わたしは教えてやりたくありません。それでなくてもクローディアは、りくつの多い子です。
頭でっかちのクローディアが、言葉にできないものをリアルに知覚すること。
この物語は、そうした主人公の成長をしっかりと描いています。