『クローディアの秘密』を読む(西洋の児童文学を読むC)2021/5/20(その2)

福西です。

(その1)の続きです。

彫像にとってじぶんが重要な人になりたいと思いました。じぶんで、このなぞをとこう!

今回は、この表現について、立ち止まって考えてみます。

ふつうなら、「このペンは私にとって大切です」と言うように、

「彫像は自分にとって重要なものです」

となるはずです。

しかし、本文は、

「私は彫像にとって重要になりたい」

という意味です。

彫像と自分とが逆転していますね。

クローディアに直観されたのは、まさにこうした主客の「逆転」なのでした。

「天使像からも重要な人に思われたい」

という、クローディアの願い。

自分が相手(天使像)を重要だと思うだけでなく、相手(天使像)も自分のことを重要だと思ってほしい、と。

この願い、何かに似てませんか?

そうです。

「恋心」です。「片想い」です。

クローディアにとって、言葉にはできないほどの、大切な「何か」。

それは、

「天使像と両想いになりたい!」

という、切ないまでの憧れ(希望)なのです。

その、居ても立ってもいられなさが、

「じぶんで、このなぞをとこう!」

となったのです。

「なぞ」を解くという経験は知的なものですが、その先にあるものは、天使像をめぐる「神秘的な経験」です。

 

次の章で、クローディアはこうも告白しています。

「あたし、あの天使をだきしめたいわ」

「だきしめてみれば、今までわからなかったことがわかってくるものなのよ。たいせつなことがね」

と。

クローディアにとって、天使像とは、

「頭で考えることのできない何か」

であり、

「この旅で持ち帰りたい秘密」

です。

また、3章で、フランクワイラー未亡人はこう書いています。(クローディアとジェイミーが「家族になった」と感じた箇所です)。

何かが、まさにその瞬間に起こりました。(…)私は、何が起こったかを知っています。ふたりにはいいませんでしたけれどね。なんでもかんでもことばや文章にあらわそうとするのは、あまりに近代的すぎます。とくにクローディアには、わたしは教えてやりたくありません。それでなくてもクローディアは、りくつの多い子です

頭でっかちのクローディアが、言葉にできないものをリアルに知覚すること。

この物語は、そうした主人公の成長をしっかりと描いています。