福西です。この日(10/12)は、イソップ寓話を読みました。
朗読には、『イソップ物語』(川崎洋著、西本鶏介監修、小学館)を使用しています。一つ一つの話に格調高い絵が添えられ、力があると感じたので、これにしました。
イソップ寓話には、『うさぎとかめ』や『金のおの銀のおの』といった、だれもが知っているお話が多いわけですが、でも本当に筋をよく知っているかというと、実はあまり知らなかったり、「なるほど、そういう話だったのか」と、大人になって気づかされることも多々あります。またそれを耳にした時期や、媒体によって、印象が変わっていることもあります。
たとえば『金のおの銀のおの』は、もとの題名は『木こりとヘルメース』となっています。ヘルメースという名前から、泉の中から出てくるのは男の神様であることがわかります。しかしアニメや絵本でデフォルメされ、むしろ我々にとって通りの良いのは、「乙女」ではないでしょうか。また『アリとキリギリス』も、もとは『アリとセミ』という題名だったり、『アリとセンチコガネ』だったりと、これも調べれば調べるほど、登場する虫や、結末にバリエーションが存在することがわかります。(学校の劇の脚本で議論の的になるところですね(笑))
そのような違いに、ことさら目くじらを立てる必要はないと思いますが、ところどころでは、「原文ではどうなっているのかな?」という興味を持ってもらえればと思います。(「気を付けて読んだら、自然といいことが見つかるよ」というぐらいに^^)。
というわけで、今使っている本の『きこりとヘルメス』を読む前に、「たぶん、これと似たお話をみんなも知っていると思うけれど、それは何でしょう?」というクイズを出してみました。すると、斧が池に落ちる下りで、Iちゃんが「あ、あれやわ、きっと! あれちゃうかな!」と目を大きくしながら、しきりとそわそわして問い返していました。そのような素朴なアクションを返してくれることが、望外に私もうれしく感じました。
ちなみに今読んでいる『イソップ物語』には全部で39編おさめられています。原文は400編あるので、量としては1/10程度となりますが、それでも、メジャーな話だけでなく、マイナーな話も含まれています。授業では、それらをわけへだてなく読むことで、メジャーなものにだけ目を通すのではきっと残らないところの何かが残ることを期待しています。
この日は、『肉をくわえた犬』から『きこりとヘルメス』まで、19編を朗読しました。どんどん読めるので、どんどん読んでいきましょう。
また朗読の後は、いつものようにお話作りをしました。その取り組みにも、先の『イソップ寓話』は栄養源・補給源になると思っています。というのも、短編は、「こうなって、こうなって、こうなる」という筋を容易に見渡せることが特徴だからです。そうした骨組みを真似ることは、おそらく今書きはじめているお話のプロットや着想にも活きてくるのではないかと考えています。
最後に、この日読んだ話の中から、個人的に「なるほど面白いなあ」と思った話を一つご紹介しておきます(^^)。
『旅人と運命の女神』
旅人が、長い旅のつかれから、井戸のふちに横になり、ねむってしまいました。
あぶなく井戸のなかへ落ちそうになったときに、運命の神がやってきて、旅人をゆりおこしました。
「あなたは?」
「わしは運命の神だ。おまえが井戸の中に落ちると、じぶんがうっかりして落ちたんだとは思わずに、運命のせいだと、わしのことをわるくいうだろう。だから、おこしたんだ。」
失敗をほかの人のせいにする人が多い。
(──『イソップ物語』川崎洋・文、小学館)
#さて、原文ではどうなっているのでしょうか。以下は大人的な興味として、岩波の訳を併記しておきます。
『旅人と運の女神』
旅人が長い旅路を終え、綿のように疲れて、井戸辺に倒れこんで眠っていた。今にも井戸にはまりそうになった時、運の女神が現れ、彼を起こして言うには、
「これお前、もし井戸に落ちていたら、自分の不注意は棚に上げて、私を咎めるところであろう」
このように、多くの人間は自分のせいで不運な目に遭いながら、神々を非難する。
(──『イソップ寓話集』中務哲郎・訳、岩波文庫)
#一つ気付くこととしては、原文からの精確な訳では、運命は「女神」となっています。これも「木こりとヘルメス」の時のように、男女のイメージが逆になっているケースですね。
(補足)
これは私自身、はじめて知ったことですが、『イソップ寓話集』は、イソップ(アイソーポス)という人物が一人で書き上げたものではないというのが通説のようです。つまり、最初は、ある程度イソップ(という実在の人物)が書いた話を元に、(それがあまりに面白かったので)後の人々もそれを真似るかっこうで、イソップという作者の名を借りて編まれたお話の集合体であるそうです。