言葉による思考に先立つもの

入角です。先日の中学数学の授業でのことです。その授業で私は-2(x+y)は-2x-2yと式変形できることを中学一年生の生徒さんに教えていました。数学に馴染んでいる人ならこの変形は直ちに思いつきますが、初めて数学を習うときはそうはいきません。なぜこう変形ができるのかについて、説明はできなくはないですが、私は、これに関しては最終的には慣れてしまうのがよいと思いました。

私はタンスに足をぶつけたとき、咄嗟に「痛い」と日本語を言います。しかしこれは私が日本語に馴染んでいるからであって、日本語を習得しつつあった頃は、「痛い」という語は今のようには板についていなかったはずです。つまり私は「痛い」という語を、「演技」としてしか使っていなかった時期があったことになります(言語において演技が第一義的であることについては、永井均が『<魂>に対する態度』で書いています)。実際、演技を通して以外に、言語を学ぶことはできないでしょう。「痛みというのは、身体をどこかにぶつけたときに感じる感覚のことだ」と子どもに説明しても、これ自体日本語だからです。

私は、数学は暗記することはほとんどない科目だと思っていたのですが、この春から中学一年生を教えるようになって、数学にも「覚える(真似する、演技する)」という段階があることに気づかされました。数学にも数学の記号や用語がある以上、覚えることがあるのは当たり前ですが、一度覚えてしまうと、自分が覚えた頃の苦労は忘れてしまいがちです。私は今、この文章で日本語を操って自分の考えを展開していますが、こうした日本語ももとをただせば「演技」です。私は自分の芝居に夢中になるあまり、それが芝居であるという事実を忘れていた、ということになります。

数学を習いたての頃は、用語や記号、そしてそれらの使い方をたくさん覚えねばならず、確かに大変です。しかし、数学は覚えて終わり、というものではありません。日本語を覚えることが、大人が教えた有限個の文を復唱するだけのものでないのと同様です。私が今こうして新しい日本語の文章を作ることができるように、数学も様々な思考を表現できます。生徒さんが、数学の言葉を使って自分自身の思考を描けるよう、手伝ってゆけたらと思っています。