福西です。
(その2)の続きです。
中学生クラスは、第3章「美術館での第一夜」を読み切りました。
以下は、章の後半(p55~p63)です。
クローディアとジェイミーは、閉館後の無人の美術館に、こっそり居残ります。忙しい一日を終え、美術品のかび臭いベッドに横たわります。
クローディアは美術館の巨大なしずけさの中で、しずかな弟のぬくもりにくっついて横になりながら、やわらかい静寂がふたりのまわりをとりまくままにしておきました。しずけさのおふとんです。(…)こい暗やみにつつまれていて、かんたんには見つかりませんでした。
恐いまでの静寂。すぐとなりで眠るジェイミーさえ目視できない闇。都会っ子のクローディアが「無」を感じる体験は、読者にも伝わります。
この章で印象に残った箇所です。
「こうるさいねえさんにしちゃ、わるくない思いつきだね」
「ケチンボな弟のわりには、あんたも悪かないわ」
これらの言葉が、相手をやっつけるためではなくて、認めあうために発せられた時のことです。
そのとき起こったこと、それはふたりがチームになった、ふたりの家族になった、ということです。
クローディアとジェイミーは姉弟なので、「家族になった」というのは、奇妙な表現です。
ではなぜ、そう書かかれているのでしょうか。
そこで、読者ははっとします。
それまでは、そうではなかったのだ、と。
ふりかえって、自分たちはどうだろうか、と。
目では見えても本当に見えていなかったことに気づく、見えないものが見える、そんな感じでしょうか。
ふたりの人間にそれ(筆者注:愛情や思いやり)がいっぺんに起こるのは──いっしょにいる時間よりも、めいめいのあそびにすごす時間のほうが多い姉弟に起こるのは──めったにないことです。
これは三児の母親としての作者の慧眼です。
家族は、家族というカテゴリーだけでは、愛情や思いやりの化学反応は、なかなか生じないのだ、と。
カニグズバーグは、うわべと、奥深さとを作品の中でより分けてみせ、読者をうならせるのが得意です。