行きて帰りし物語とカタルシス

福西です。過去記事の紹介です。

西洋の児童文学を読むA(2020/8/27)

『はてしない物語』の終盤のシーンです。

「生命の水」に近づいたバスチアンは、「美しい、強い、怖れを知らぬ英雄」ではなく、「ただのバスチアン」に戻ります。

「条件付きで愛される存在」(帝王)から「無条件に愛される存在」(自分自身)に生まれ変わります。

ただ、物語では「生命の水」の効果でそうなったように描かれていますが、実質はバスチアン自身の気付き(悟り)によるものです。

自分という存在は、「もともと無条件に愛される存在であったのだ」と。

プラトンの『国家』7巻518dで(原文はこちら)、ペリアゴーゲー(περιαγωγή=turning around)という言葉が出てきます。

教育(哲学)とは、「魂」の「向け変え」の技術である、と。

バスチアンは、アウリンを地に置くことによって、それを成し遂げたと言えます。

もともと自分のものではなかったものを手放すことで、もともと自分のものであったものを手に入れ直します。

これは自分で自分を向け変える行為、ペリアゴーゲーです。

 

生命の水を得たバスチアンは、生命の水を父親にも持って帰りたいと願います。

「ファンタージエンへ行き、そこから帰る」ことは、「だれかに愛され、だれかを愛したい」という物語上の表現(内容と形式の一致)になっています。

バスチアンは、現実世界にいる父親がバスチアンのことを心配し、ファンタージエンからの彼の帰りを待ち望んでいると予感します。それは現実世界で果たす抱擁(父の目の中に「生命の水」を見ること)で現実となります。

そしてこの実感、現実感覚の確かさこそが、ファンタージエンをより豊かにします。

ファンタージエンに行く前のバスチアンは、父親は自分のことを心配などしてくれていないと思い込んでいました。その自分で作り上げたさびしさが、ファンタージエンへ行くきっかけでもありました。その自己の歪んだ認識(魂の汚れ)を、生命の水はきれいに拭い去ってくれたのだと思います。

カタルシスという言葉がありますが、『はてしない物語』は、手や顔を洗うみたいに、何度読み返しても、それを味わえます。

またいつか、新しいクラスで読み返す日を、待ち望んでいます。