福西です。
今学期もよろしくお願いいたします。
『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)、16章「ゆたかさのなかの苦しみ」を読みました。
受講生のAoniさんが、自身の発見を伝えてくれました。
「第1部の3章『暴風雨ごっこと、ほんものの夕立』では、子どもたちの遊びで、モモザンを演じるモモが、歌で、嵐の元凶シュム=シュム・グミラスティクムをしずめる箇所がありました。それが、第2部以降の展開と似ていると気づきました。つまり、灰色の男たちが出てきて、モモの活躍でそれらがいなくなるという展開と」
A 暴風雨ごっこの嵐
B モモザンの歌
C 嵐が静まること
A’ 灰色の男たちの登場
B’ モモの活躍(ホラが時間を止めた後、灰色の男たちの金庫を開けること)
C’ 灰色の男たちの退場
このAoniさんの「構造的な発見」を、さっそくみんなで共有しました。
Aoniさん、ありがとうございます。
このクラスで以前、第3章を読んだとき、「この章って、本当にいるのかなあ?」という疑義が呈されたのを覚えています。しかし、上記を踏まえると、第3章の「子どもたちの遊び」は、『モモ』という作品全体を示す「寓話」としての意味を持つことになります。
河合隼雄が、第5章「おおぜいのための物語とひとりだけのための物語」のジジの変てこな話が、作品全体とかかわりを持っていることを指摘しています。
ジジの話の中に、地球が新しい地球と入れかわるというようなことがありますが、これも全体の話とかかわっている。つまり、このお話の最後のところで、時間を司るおじいさん、マイスター・ホラが眠っている間に事態が変化しますが、これは一種の死と再生みたいなものですね。だから、古い地球から新しい地球へというのもそのテーマに大いに関連している。ジジが喋っているバカバカしい話の中に、いろんなテーマをうまく入れ込んでいるわけです。
─「『モモ』の時間と「私」の時間」 『子どもの宇宙』(河合隼雄著作集6、岩波書店)所収
第5章がそうであれば、第3章でも同じことが言えます。つまり、第1部は作品全体への予告編またイメージの提供源になっているだろう、と。
テキスト自体は、あと5週で読み終える予定です。そのあとで、上の河合隼雄の文章のような、『モモ』について書かれたものを読んで、「そうだな」とか「いや、ちがう」とか言える時間を持ちたいと思います。