福西です。
(その1)からの続きです。
マーカスとエスカは北の部族に潜入し、とうとう<ワシ>をその目で確かめます。
しかしそれを取り返せたという達成の思いも束の間、今度は、恐ろしい追手の危険が二人の身に迫ります。
探索行から、より困難な逃避行へと移って、物語はいよいよ佳境を迎えます。執拗な追手をまくためにあえて遠回りを選ばなければならない、その選択によってまた危険が続くという、ハラハラする感覚は、読者の記憶にいつまでも残り続けることでしょう。
ああ、おれが《ワシ》のひとりになった時
(それは昨日のことのよう)
おれはクルージウムの女の子にキスした
戦に出陣する前に
物語の終わり、マーカスの耳に、エスカの口笛が聞こえてきます。
さて、マーカスは、自分たちにできることというのは、「傷があっても、それを気にしないで暮らすことだ」と言ってのけます。
生国であるエトルリアに帰るか、それともブリテンに留まるか。マーカスは、保留していた最初の問題に立ち返り、自身に偽らない答を出します。
その選択は、<ワシ>の探索が、盗むのではなくて取り返すという別の見方ができたように、逃げ帰るのではなくて真の家に帰ってくることを、意味していたのかもしれません。
歴史という渦巻く川に翻弄される人間が、その歴史の主体者であるということ、その流れの中であくまで自由に生きるとはどういうことなのか。その生涯を通して、「これでよかった」(「いい狩りだった」)と思えるとはどういうことなのか。
マーカスもエスカも、かつて「人間の出来事」の奔流から傷を受けた者同士でした。しかし、二人は今となっては、自身の後悔や怨みにとらわれることはありません。彼らはその思い出に対して、口笛のように節をつけながら、今の時点における人生を、自由に表せるまでに大きく成長したのでした。ここには、作り話でありながら、歴史の表舞台には顔を出さなかった「幸福な二人」の、お互いを深いところで尊敬し合うまでに至った「記録」があります。
『第九軍団のワシ』。人間は、歴史から受けた傷を、何によって癒され、克服していくのか──その傷を深く考察することによって、若者たちの精神の成長を描いたサトクリフの名作。
Fortunati ambo!(幸福な二人よ!)──ウェルギリウス『アエネーイス』(9.446)
山下です。
ご紹介の作品が素晴らしい作品であることは記事の行間から十分に感じ取れます。紹介文を読みながら、個人的には『ローマ』と題するテレビドラマ(英米共同制作)の百人隊長ヴォレヌスとプッローの友情を思い出しました(こちらは第13軍団だったと記憶します)。最後に挙げられたFortunati ambo!(幸福な二人よ!)は、なぜ二人が「幸福な」と呼ばれうるのか、2000年前からの現代に届けられた問いかけです。時代が変わり、国が異なっても胸に響く言葉があるかぎり、文学は不滅だと信じられます。
山下先生、福西です。
コメントをありがとうございます。
>『ローマ』と題するテレビドラマ(英米共同制作)の百人隊長ヴォレヌスとプッローの友情を思い出しました。
興味深い作品を教えていただき、ありがとうございます。
>なぜ二人が「幸福な」と呼ばれうるのか
「〇〇があるかぎり」の「〇〇の部分に何が入るか?」という問いかけともとれますね。
以前、山下先生が仰っていたことですが、
「古代の西洋」「現代の西洋」
「古代の東洋」「現代の東洋」
この図の対角線的に、一番遠い時空に位置する「現代の東洋」の日本人が、
「古代の西洋」の作品を「読める」ことは、有難いことです。
テキストは、「人間の営み(歴史)があるかぎり」の一つの実例だと感じます。