傷があっても、それを気にしないで暮らすこと(その2)

福西です。

その1)からの続きです。

マーカスとエスカは北の部族に潜入し、とうとう<ワシ>をその目で確かめます。

しかしそれを取り返せたという達成の思いも束の間、今度は、恐ろしい追手の危険が二人の身に迫ります。

探索行から、より困難な逃避行へと移って、物語はいよいよ佳境を迎えます。執拗な追手をまくためにあえて遠回りを選ばなければならない、その選択によってまた危険が続くという、ハラハラする感覚は、読者の記憶にいつまでも残り続けることでしょう。

ああ、おれが《ワシ》のひとりになった時
(それは昨日のことのよう)
おれはクルージウムの女の子にキスした
戦に出陣する前に

物語の終わり、マーカスの耳に、エスカの口笛が聞こえてきます。

さて、マーカスは、自分たちにできることというのは、「傷があっても、それを気にしないで暮らすことだ」と言ってのけます。

生国であるエトルリアに帰るか、それともブリテンに留まるか。マーカスは、保留していた最初の問題に立ち返り、自身に偽らない答を出します。

その選択は、<ワシ>の探索が、盗むのではなくて取り返すという別の見方ができたように、逃げ帰るのではなくて真の家に帰ってくることを、意味していたのかもしれません。

歴史という渦巻く川に翻弄される人間が、その歴史の主体者であるということ、その流れの中であくまで自由に生きるとはどういうことなのか。その生涯を通して、「これでよかった」(「いい狩りだった」)と思えるとはどういうことなのか。

マーカスもエスカも、かつて「人間の出来事」の奔流から傷を受けた者同士でした。しかし、二人は今となっては、自身の後悔や怨みにとらわれることはありません。彼らはその思い出に対して、口笛のように節をつけながら、今の時点における人生を、自由に表せるまでに大きく成長したのでした。ここには、作り話でありながら、歴史の表舞台には顔を出さなかった「幸福な二人」の、お互いを深いところで尊敬し合うまでに至った「記録」があります。

『第九軍団のワシ』。人間は、歴史から受けた傷を、何によって癒され、克服していくのか──その傷を深く考察することによって、若者たちの精神の成長を描いたサトクリフの名作。

 

Fortunati ambo!(幸福な二人よ!)──ウェルギリウス『アエネーイス』(9.446)