『歴史/れきし』(中学生/小学生)クラス便り(2021年3月)

山びこ通信2020年度号(2021年3月発行)より下記の記事を転載致します。

『歴史/れきし』(中学生/小学生)

担当 吉川弘晃

 山の学校では、中学生向けに「歴史」を、小学生向けに「れきし」を開講しています。このエッセイでは毎度、各クラスの近況を報告するのが慣わしになっているのですが、その前に昨年初めに発生し、瞬く間に全世界に蔓延し、現在もなお猛威を振るうコロナウイルス(COVID-19)について言及しておかねばなりません。

 何よりも先ず、ひとつの疫病がこれだけの規模と速度で地球遍く死をもたらしているという、この事態にしっかりと驚くことが大事です。歴史の様々な知識を身に付けると、現在生じていることを過去と比較して位置づけて考えられるようになる反面、「人間の行為など所詮はそんなものだ」「数千年単位で見れば珍しくもなんともない」といった、現在への冷めた(ニヒリズム的)態度につながってしまうことが多いからです。

 もっと注意しなくてはならないのは、過去の悲惨な事例と現在の類似性を強調しすぎるあまり、不確かな根拠に基づいたパニックを広めてしまうことでしょう。例えば、コロナウイルスによって約1世紀前の「スペイン風邪(インフルエンザ)」への注目が集まっています。第一次世界大戦末期(1918年)に発生し、世界中(日本を含む)で数億人の感染者と数千万人の犠牲者を出した疫病です。現実の思わぬ事件によって忘れられた過去に光が当たることそれ自体は歴史という営みの醍醐味でしょう。しかしここで立ち止まって考えるべきは、歴史的世界では全く同一の出来事は生じ得ないということです。例えば、100年前と今とでは医療技術も衛生環境も全く違います。そして何よりユーラシア大陸が丸ごと戦争と革命でてんやわんやの時代に、どこまで精確な統計を出せたのでしょうか。

 とはいえ、マーク・トウェインも言うように「歴史は反復しないだろうが韻を踏む(History may not repeat itself but it does rhyme)」のも確かです。国家権力は国民の命を守るために個人の自由をどこまで制限できるのか? 緊急事態下で社会の機能が停止していくなか限られた人材・物資・財源をどう配分するのか? 特定の個人や集団・職業への差別はなぜ生まれてしまうのか? 人はなぜそれでも集まって生きようとするのか? この他にも、一生をかけても解けないくらい途方もないけれども人間にとって極めて本質的な問いが、この1年間の身近な生活から生まれてくるのではないでしょうか。

 話が壮大になりましたが、このクラスではオンライン授業への切り替えの他は、やることはあまり変えていません。教科書を声に出して読み、正しく理解し、自分の言葉でそれを説明すること。可能であれば、著者へのコメントや批判、自分なりの疑問点を見つけ、やはりそれを言葉にすることです。

 「歴史」クラスでは高橋昌明『武士の日本史』を、「れきし」クラスでは松澤裕作『生きづらい明治社会』をそれぞれ教科書として指定しています。前者では、私たちが時代劇や漫画、アニメなどで想像する「サムライ」が歴史上の「武士」とどのように違っているのか、その違いはなぜ生まれたのかという問いをもとに、古代から近現代までの日本史のなかで「武士」とそのイメージの変遷を考えていきます。後者では、2年前に150周年を迎えた明治維新(1868年)が多くの場合、近代日本の出発点として肯定的に捉えられることに対し、そんな明治の時代(〜1912年)を、貧困や混乱に苦しんだ農村や都市の老若男女の姿から再考していきます。

 いずれの本も、歴史上の概念や時代区分について、従来の論に対して大きな批判とともにスケールの大きな話を投げかけています。必ずしも著者の姿勢に共感・賛同する必要はありません。小中学生にとって読むのが簡単な本とは決して言えませんが、それでも自分の精神と言葉を頼りに足搔いてみてください。講師はそのための手助けをいたします。