福西です。
『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)、15章「再会、そしてほんとうの別れ」を読みました。
モモはジジに会いに行きます。
「モモ!」と彼はうでをひろげてさけびました。
ジジは、ニノとは違い、モモの近況を聞きたがります。
しかしマネージャーの邪魔が何度も入ります。モモを新聞社に連絡しよう、新しい映画に出演させよう、話題にしよう、宣伝しよう、etc。
マネージャーがアイデアを思いつくたびに、ジジは険しい表情になり、断固とした口調で叱りつけます。ここで読者は、ジジが今でもモモを大切に思っていることを知り、「やっぱりジジはいいやつだなあ」と思わされます。
「いまも、あとでも、とにかくぜったいにだめだ。いまはおねがいだからだまっててくれないか、ぼくはモモと話があるんだ!」
しかし事のなりゆきは、彼の希望とは正反対に運びます。どんなに望んでも、それはしょせん「操り人形」としてなのでした。13章に書かれていた以下の「多忙な生活」から、彼はもう後戻りできなくなっていたのです。
けれど彼はあいかわらず秒きざみの予定表にしたがって車でかけまわり、とびきりはやい飛行機で飛びまわり、……
(13章)
ジジは、車の中でモモの話を聞こうと思っていたのに、とうとう自分ばかりが話すだけで、空港についてしまいます。
ジジは、モモに「いっしょに来てくれ」と頼みます。
モモは、そうしたいと思いました。
そうしたくて、心がうずくほどでした。
けれども、できませんでした。もしついていったら、モモはモモでなくなる。そんなにせもののモモでは、ジジの本当の支えにはならない。そう悟ったからです。
ジジは、スケジュールの波に抗しきれず、飛行機に吸い込まれます。
モモはここで、同じ人との二度の別れを経験するのでした。
ようやくめぐり会ったものの、そのためにかえってほんとうにジジを失ってしまったような、そんな気持ちでした。
そして、モモはカシオペイアとまで、はぐれてしまいます。モモの「孤独」が続きます。
クラスでは、ラテン語の格言「誠実は賞賛されるが、寒さで震える」(probitas laudatur et alget.)を紹介しました。
そして、「二度の別れ」というモチーフに、「オルペウスとエウリュディケー」の話(あの世でふりかえって妻を失う話)を紹介しました。
山下です。
>ラテン語の格言「誠実は賞賛されるが、寒さで震える」(probitas laudatur et alget.)を紹介しました。
対照的な表現として、「論語」の「徳孤ならず。必ず隣あり」もありますね。「モモ」の話はどちらに展開していくのか、興味があります。たぶん、「必ず隣あり」のほうですね。作者は読者に「隣」になるよう呼び掛けていると思います。
「オルペウスとエウリュディケー」のエピソードは、ウェルギリウス『農耕詩』の第4巻エピローグですね。
拙訳へのリンクを張っておきます。https://aeneis.jp/?p=6993
ご参考まで。
福西です。山下先生、コメントをありがとうございます。
>「論語」の「徳孤ならず。必ず隣あり」もありますね。
そのポジティブさを『農耕詩』でたとえるなら、「新しい黄金時代の到来」ですね。
そういえば『農耕詩』の「蜜蜂が蘇る」モチーフは、『モモ』の副題である「時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた 女の子のふしぎなものがたり」とちょっと重なるなと思いました。アリスタエウスとオルペウスの二つの価値観は、読み方によっては「灰色の男たち」と「モモ」のそれと似ているようであり、両者の相克が「新しい黄金時代」なのかなとも連想しました。
山下です。
>「新しい黄金時代の到来」
「モモ」との関係で強いて言うなら、第2巻エピローグの「農耕賛歌」で描かれる世界観が近い気がします(個人の感想です)。
これも「農耕賛歌」訳へのリンクを貼っておきます。
https://aeneis.jp/?p=6971
一部を抜き出すと、
「農夫らには、穏やかな休息と、欺瞞を知らぬ様々な宝に満ちた生活、広い田園の中での閑暇がある。洞窟、自然のままの湖、涼しい谷間、牛の鳴き声、木陰の快いまどろみ等、何一つかける物はなく、林間の空地や獣の隠れ場もある。若者たちは、労働に耐え、質素な暮らしに慣れ、神を敬い、年長の人々を尊敬する。正義の女神が地上から去ったとき、その最後の足跡は彼らの上に印されたのだ。」
とか、
「だが農夫は、曲がった鋤で大地を耕す。これが一年の労働であり、 これによって祖国と幼い孫たちを支え、牝牛の群と忠実な牡牛を、 養い育ててゆけるのだ。一年の収穫として、果物や家畜の子、穀物の束で満ち溢れ、 その実りが畝に重くのしかかり、納屋をつぶすほどになるまでは、 つかの間の休息もありえない。冬が来ると、オリーヴの実は圧搾機でつき砕かれ、豚は木の実を 飽食して小屋に帰り、森にはキイチゴの実がなる。秋は様々な果実を地に落とし、高く、日当たりのよい岩地の家で は、ブドウがほど良く熟している。
農夫のかわいい子供たちは、彼の首にまつわって口づけを求め、 汚れなき彼の家は、貞潔のしきたりを守る。牝牛は重く乳房をたれ、 青々とした草の上では肥えた子羊が、角と角とを付き合わせて 争っている。農夫自身は祭りを行う。草の上に足を延ばし、真ん中に火をおき、 仲間たちが酒杯に花づなを飾ると、彼は神酒を捧げながら、酒ぶね の神よ、あなたに呼びかける。それから、楡の木に的を掲げ、投げ槍競技をやろうとたくましい 肉体をあらわにする。」
といった表現の描き出す世界に「モモのような子」が混ざっていてもたぶん目立たなかっただろうと思います笑
山下先生、福西です。
「農耕賛歌」のご紹介をありがとうございます。
>穏やかな休息と、欺瞞を知らぬ様々な宝に満ちた生活、広い田園の中での閑暇がある
に、改めて魅力を覚えました。
『モモ』の第一章での人々の様子がそれに近いです。(「芝居」を愛し、その閑暇を持っていた頃)
>正義の女神が地上から去ったとき
これが灰色の男たちの登場を連想させますね。
>「モモのような子」
農夫のかわいい子供たち、ですね。