『モモ』を読む(西洋の児童文学を読むB、2021/3/12)

福西です。

『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)の14章「食べものはたっぷり、話はちょっぴり」を読みました。

モモはニノの店に行き、13章で示されたジジ、ベッポ、子どもたちの近況をニノに教えてもらおうとします。

そのために、行列に三度並ばなければなりませんでした。

ニノの店は修羅場のようで、味わって食べる雰囲気ではありません。客はみな怒りっぽく、「急げ」とうるさいのです。

モモはいっしょうけんめい「聞く」力を発揮しようとしますが、そのつど邪魔されます。

ニノも、モモと話をする時間を割けません。

それでいて、モモが去る時に、ニノはこう言うのです。

「ちょっと待てよ! おまえはいままでどこにいたかは、ぜんぜん話してくれなかったじゃないか!」

モモが話してくれなかったのではなくて、ニノが聞こうとしなかったのです。

ニノは、「モモの話を聞くこと」はもちろん、「モモに自分の話を聞いてもらうこと」さえできなくなっています。そのことを、受講生のK君がこの章のキーポイントだと指摘しました。

「円形劇場に来たって、どっちみち、なんにもないしね」

「ニノがこのセリフを無意識に言っていることが問題です」と。

以前のニノは、一時的にモモのところへ行かなくなりましたが、暇を持つことを自覚し、7章でまた交流を復活させています。しかし今となってはもう望めません。自覚をなくしてしまったからです。

「無意識のままでは行動を変えることはできない。だから無意識のままで抑え込んでしまうのが、灰色の男たちのやり口なんでしょう」と、K君。

同感です。

 

ちなみに、『モモ』の古い版の訳では、「スピード料理 レストラン・ニノ」ですが、新しい版では「ファストフード・レストラン ニノ」となっていると、これもK君が教えてくれました。

エンデの造語が現実になった例です。

文明はとかくスピードを求めます。

それについて、夏目漱石が『行人』でこんな文章を書いています。

人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれたことがない。徒歩から車、車から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。どこまで連れて行かれるか分からない。

昔に戻ることは、だれにもできません。

しかし昔との違いに気付くことはできます。

ブレーキがあればこそ、アクセルも意味があります。