福西です。
『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)の14章「食べものはたっぷり、話はちょっぴり」を読みました。
モモはニノの店に行き、13章で示されたジジ、ベッポ、子どもたちの近況をニノに教えてもらおうとします。
そのために、行列に三度並ばなければなりませんでした。
ニノの店は修羅場のようで、味わって食べる雰囲気ではありません。客はみな怒りっぽく、「急げ」とうるさいのです。
モモはいっしょうけんめい「聞く」力を発揮しようとしますが、そのつど邪魔されます。
ニノも、モモと話をする時間を割けません。
それでいて、モモが去る時に、ニノはこう言うのです。
「ちょっと待てよ! おまえはいままでどこにいたかは、ぜんぜん話してくれなかったじゃないか!」
モモが話してくれなかったのではなくて、ニノが聞こうとしなかったのです。
ニノは、「モモの話を聞くこと」はもちろん、「モモに自分の話を聞いてもらうこと」さえできなくなっています。そのことを、受講生のK君がこの章のキーポイントだと指摘しました。
「円形劇場に来たって、どっちみち、なんにもないしね」
「ニノがこのセリフを無意識に言っていることが問題です」と。
以前のニノは、一時的にモモのところへ行かなくなりましたが、暇を持つことを自覚し、7章でまた交流を復活させています。しかし今となってはもう望めません。自覚をなくしてしまったからです。
「無意識のままでは行動を変えることはできない。だから無意識のままで抑え込んでしまうのが、灰色の男たちのやり口なんでしょう」と、K君。
同感です。
ちなみに、『モモ』の古い版の訳では、「スピード料理 レストラン・ニノ」ですが、新しい版では「ファストフード・レストラン ニノ」となっていると、これもK君が教えてくれました。
エンデの造語が現実になった例です。
文明はとかくスピードを求めます。
それについて、夏目漱石が『行人』でこんな文章を書いています。
人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれたことがない。徒歩から車、車から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。どこまで連れて行かれるか分からない。
昔に戻ることは、だれにもできません。
しかし昔との違いに気付くことはできます。
ブレーキがあればこそ、アクセルも意味があります。
山下です。
興味深いエントリーをありがとうございました。
K君の感性は鋭く、豊かですね。それを聞き逃さず、記録していただいてこそ、このような丁々発止のやりとりを目に浮かべることができます。
自分はかつて『モモ』を読んだと思っていただけで、何も読んでいなかったな、と感じさせられます。
漱石もエンデも同じ問題意識を共有していたのですね。
それに共鳴することで、私達の「意識も目覚める」のでしょう。
福西です。
山下先生、ありがとうございます。
K君の指摘にはいつもハッとさせられます。K君は『モモ』を一読二読ならず、折につけ繰り返し読んでいるようです。だからこその新しい発見があって、それを堂々と開陳してくれることがクラスとして有難いです。K君が「意識」「無意識」という言葉を使う時、まるで目がさめるような印象を受け取ります。
『モモ』は温故知新の本だなと実感します。