山びこ通信2020年度号(2021年3月発行)より下記の記事を転載致します。
『英語で味わうシェイクスピアのソネット』
担当 坂本晃平
詩という言葉があなたに連想させる言葉はなんでしょうか? あるいは、あなたの周りの人は、詩という言葉を他のどのような言葉と一緒に使うことが多いですか? おそらく、感性、センス、感動、独創性あたりの言葉だと思います。言ってみれば、詩とは独自の感性を持つ詩人の思いの発露であるから、読み手も同じくらい感性が豊かでないと理解できない、とどこか思われている節があるのではないでしょうか。
これはなんとも残念なことです。感性が豊かであることが悪いと言っているわけではありません。大前提として、詩には感性では語りきれない「あたまでっかち」な部分があるのです。詩というのは、実のところ、理屈っぽいところもあればパズルのようなところもあります。ですから、詩人の小理屈や謎々のようなものに付き合って伴走してあげれば、なんだかんだいろいろ分かってきます。初めから感性の問題にしてしまうからこそ、詩というものの敷居がいやに高くなってしまうんですよね、きっと。
そこで、世に言う感性だけに頼っていては絶対に分からないワンポイントを、このさい紹介してみたいと思います。詩の韻律という小うるさいルールを理屈っぽくこねくりまわして、そうして初めて見えてくる詩人の技巧を、パズルのように解いてみましょう! 例として用いるのは、シェイクスピアの『ソネット集』から「ソネット24番」冒頭です。この詩では、恋人たちが見つめあっていて、語り手は恋人の瞳に映る自分の姿、より具体的には、自分の肉体の胸と、その胸の内で語り手が絵を描くかのように想い描いている恋人のイメージを見つめる様子を歌っていきます。要するに、恋人の瞳を鏡にして自分自身の胸の内を覗き込む、といった感じでしょうか。さて、いわゆるソネットという詩形の小うるさいルールのひとつに、弱強、つまり「ダンダン」という音のユニットが基本単位というものがあります。具体的には To be, | or not | to be. のリズムですね。ちなみに、ソネットの場合そのユニットは1行に5個必要ですから、24番の冒頭は、
Mine eye hath played the painter and hath steeled
Thy beauty’s form in table of my heart,
My body is the frame wherein ’tis held,
And perspective, it is best painter’s art.
[ぼくの目は画家の役割、君の美の似姿を/ぼくの心の銘板にしかと刻み込んだ。/その絵を納めるのはぼくの生きた体、/正しい角度から見てくれさえしたら、それは最高の絵だと思うよ。(大場訳)]
となっているわけです。さて、上の引用ではこのルールが厳格に守られているのがわかりますね。ところが、イタリック体にしたperspectiveという単語に注目して欲しいのです。これは大場先生が「正しい角度から見てくれさえしたら」と副詞的に訳している単語ですが、強く読まれる場所がおかしいことにお気づきになりましたか?
そうです、 per-spec-tive という言葉は、見ての通り、ラテン語のspectō(見る)に由来する真ん中の部分が意味の中心ですから、本来、perspectiveというように、そこに強い音が来ないといけないはずなのです。日本の高校生がperspectiveをperspectiveと読めば、間違いなく英語の先生に怒られるでしょう。
つまり、ソネット24番の冒頭はリズムの面で歪んでいるのです。これはなぜでしょうか? シェイクスピアが下手くそだから? いえいえ、そんなことはありません。その答えは、perspectiveという単語がどのような意味で使われているのかを探れば見えてきます。
perspectiveとは、シェイクスピアの時代において、正面から見れば歪んでいるけれども、角度を変えて見てみると正しい絵が浮かび上がる「アナモルフォーシス」という絵画の技法を意味していました。この技法を用いた例として有名なものに、ホルバインの《大使たち》という絵画作品がありますが、画面下に斜めに走っている物体を右から角度をつけて見てみれば骸骨に見えるように工夫がされています。ちょうどそのように、24番の詩においても、相手をそのまま真っ直ぐ見るというよりも、自分の心の内にある恋人のイメージを、恋人の瞳に映った自分の胸を凝視することで見てくれようぞ、という変態的な視線で見ていることは先ほども確認しました。まさに角度をずらして見る「アナモルフォーシス」、すなわちperspectiveと言えるでしょう。そして詩人はそのような視線の歪みを利用した絵画技法に言及するにあたって、単語のリズムを歪ませている。これは絵画を詩歌で以って模倣しようという試みに他なりません。上の引用をもう一度見直してみても、他の部分は完全にルールに従って綺麗なリズムとアクセントで書かれていますので、シェイクスピアがこれを狙い澄まして書いているということがわかります。これには舌を巻かずにはいられませんね。
さて、神は細部に宿るらしいですけれども、その細部というのが詩の場合にはルール違反スレスレの場所だということがお分かりになったかと思います。これは、詩人たちが守らなければならない共通のルールを学べば、そこからルール違反を探すことで味わいどころを逆算できるということを意味します。詩を読むセンスなるものがあるとすれば、それはルール違反を探す要領がいいか悪いかの話に過ぎないと思います。また往々にして、味わいどころがわかるからこそ感動もできるのです。だからこそ、詩のルールを学ぶことこそが王道です。そのためいつも文法の話、韻律の話、そんな話ばかりしている気がします。