福西です。
『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)を読んでいます。
「13章 むこうでは一日、ここでは一年」の後半を読みました。
灰色の男たちは、11章で決定した「モモ孤立化作戦」を実行します。ジジとベッポの次のターゲットは、子どもたちです。
印象に残った個所です。
「子どもは未来の人的資源だ。これからはジェット機と電子頭脳の時代になる。(…)ところがわれわれは、子どもたちをあすのこういう世界のために教育するどころか、あいもかわらず、彼らの貴重な時間のほとんどを、役にも立たない遊びに浪費させるままにしている。」
─『モモ』13章(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)
子どもたちに対する世の大人の目つきです。それによって、子どもたちは「小さな時間貯蓄家」になっていきます。
受講生のK君が、「『人的資源』という言葉がすごくきらいだ」と発言し、みんなの賛同を得ていました。
これが書かれたのは1970年代。
K君はまた、「遊びを浪費とみなすことに対する作者の警鐘。もし現代でそれが強まっているとしたら、予言的だ」と。
一方、Aさんが次のくだりを気に入ったと発言し、改めてよさをかみしめました。
モモは手紙を顔のわきにおいて、そっとほおをのせました。いまはもう、さむくありません。
13章のラストシーンです。手紙とは、ジジがモモの家に書き残したものです。
さむくないのは、もちろん「心」がです。
この章は「さむさ」で始まり、「さむくない」で終わります。その構造もまた印象的です。
山下です。
人的資源を「人材」と言い換えれば、我が国の未来を予見したかのような一文です。
ひるがえって、ミヒャエル・エンデも知っていたと思われる「ホモー・スム」(テレンティウス)は「私は人間だ」という意味であり、欧米の文人でこれを知らぬ者はいないとされます。
教育は「人材育成」という側面もありますが、基本は「人間を育てること」。人が人である限り、社会は豊かになるという信念がその根本に流れる思想です。
欧米の考えを紹介すると、彼らはできているのか?とか、日本は日本、という反論が返るのですが、彼らができていようとできていなかろうと、日本には日本の課題があり、それを謙虚に見据え、自国の「よさ」を未来により輝かせる道を求めていけばよいと思います。私は明治開国当初、近代化を急ぐあまり、洋魂の根っこを問うことなく今に至る、だと見ています。
福西です。
山下先生、いつもコメントをありがとうございます。
遊びの内容が「なにか役に立つことをおぼえさせられるためのものばかり」になった結果、子どもたちは「やれと命じられたことを、いやいやながら、おもしろくなさそうに」やり、「好きなようにしていいと言われると、こんどはなにをしたらいいか、ぜんぜんわからない」(大島かおり訳)と記すエンデの視点は、いよいよもって新しいと思います。遊びは無駄どころか「人間であること」「よりよい人間になる」ための重要な根っこなのでしょうね。
工芸繊維大での山下先生の文学の授業で、私ははじめて『モモ』とこの箇所に出会いました。そのとき、山下先生が「切り花」と「地植えの花」の比喩で話されていたことを思い出しました。