福西です。
この日は、受講生のR君が自作の小説を持ってきてくれました。とっておきの宝物を見せてくれたことに感激しました。
4章分、各章が原稿用紙10ページの分量です(均等という点に構成力を感じます)。
そのうち3章まで読み合わせしました。来週、その続きを読むのが楽しみです。
各章の幕間に、R君がホワイトボードで、登場人物や設定について解説をはさんでくれます。その時の、いきいきとする様子が眩しかったです。
この作品がR君の心の中での古典(第一席)となることを疑いなく覚えました。
お家でも、書いた作品の読み合わせを、お母さんとするそうです。
すごく良いご家庭だなあと思いました。
山下です。
今迄私は事あるごとにご家庭での本の「読み聞かせ」の大切さを口にしてまいりましたが、本の「読み合わせ」とは驚きです。本当に素晴らしいことですね。
山下です。
表現は自分の内面を外に見せることになり、年を重ねるとだんだん警戒するようになります。
幼児の頃は無邪気に絵を描いていた子がそのうち「上手じゃないから」と他人の評価を気にして絵から遠ざかるケースもあるでしょう。
絵にせよ、歌にせよ、とりわけ言葉の表現にせよ、他者の評価を気にせず、自分の思いのたけをありのままに表現できることは本当に尊いことであり、10代にその経験をどれだけ幅広く積むか、ということが後々の人生にとって大きな意味をもつように思います。
それだけに、R君が亮馬先生に自作の小説を見せてくれたこと、何よりご家庭でそれを読み合わせなさる、ということの意味は大きいと感じております。
私がそのように感じるのは、自分の体験と少し重なる部分があるからです。
高校時代にドキドキしながら職員室の国語の先生に(生意気な)エッセイ(長文)を見せに行った時のことを忘れません(自分で勝手にテーマを決めて好き勝手なことを書きました)。ただ、この先生ならわかってくれるだろう、と信じる気持ちがそのような行動をとらせました。
今の自分は、どこをどう評価しても独断的で視野の狭いまずい文章だったことは手に取るようにわかるのですが、そのときの先生は「ううむ」としばし考え込むしぐさをされ(=これをどう評価したものか、と途方に暮れられたことでしょう)、とくに否定されることなく、といって過度に評価されるわけでなく、よく考えてこれだけ多くの文章を書いたね、とのみ仰った、その言葉あればこそ、何かが守られた、と感謝する次第です(要は頭ごなしに否定されなかっただけでよかったわけです)。
先生にすれば、私の書く文章は赤子の手をひねるように難癖をつけようと思えばいくらでもつけられたはずでしたがそうはされなかったことの意味を年を重ねるにつれて、また、立場上教えることが増える年代になってからは益々いっそう重く受け止めることができるようになり、今に至っております。
亮馬先生の記事から推察されるR君の文章力は中からみなぎる力強さをたたえていると思われ、私の例(ダメでもけなさないことが大事)とは異なり、「ほめるに値するものをほめるのが正しい」(ラテン語の格言)のお手本のような例です。私が自分の例を紹介したのは、親であれ先生であれ、一人一人の子の伸びしろを信じ、(私が挙げた例のように)ダメなものもダメとは言わず、どこかに必ず取り柄がある(=例えばよく考えて書いた、等)と前向きに評価するまなざしを忘れなければ、だれもが自信を失わずに前を向いて歩くだろう、ということを述べたいためでした。
「ことば」のクラス、各学年どうぞよろしくご指導ください。>亮馬先生
山下先生、福西です。
>他者の評価を気にせず、自分の思いのたけをありのままに表現できること
>10代にその経験をどれだけ幅広く積むか、ということが後々の人生にとって大きな意味をもつように思います。
はい。コメントを頂き、ますますその思いを強くしました。
>「ほめるに値するものをほめるのが正しい」
私は本当に何もしておらず、R君が頑張ったこと、自分で自分に命じたことに、ただただ「すごいなあ」と目を細めているだけです。そして、R君のご家庭に対しても尊敬の念しかありません。
R君と出会えたことに感謝いたします。