福西です。
『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)を読んでいます。
12章「モモ、時間の国につく」を読みました。
「時間がおしまいになる」(=死ぬ)ことを、ホラは次のように説明します。
「あるいは、こういうふうに言えるかもしれないね。おまえじしんは、おまえの生きた年月のすべての時間をさかのぼる存在になるのだ。」
また、モモが「あなたは死なの?」とたずねた時、ホラは次のように返事します。
「もし人間が死とはなにかを知っていたら、こわいとは思わなくなるだろうにね。そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ。」
「そう人間におしえてあげればいいのに。」
「そうかね? わたしは時間をくばるたびにそう言っているのだがね。」
死について、耳に入っても聞こえない、そんな忙しい(心を失った)状態を反省させられるくだりです。
一日を振り返ると、無自覚な行動の時間がたくさんあることに気づきます。たとえば、学校やコンビニなどに向かうとき。たとえば、同じ交通機関を利用しているとき。「いつの間にか着いていた」とき。自分はその時間の主人たりえたのかと問われると、自信がなくなります。
この「いつの間にか」は、ベッポの道路掃除のそれとはちがって、「怠惰な多忙」と言われてしまいそうです。時間が自動的に流れるほど、便利であるかわりに、生きた部分を失います。
セネカの『人生の短さについて』に、次のような文章があります。
この人が浴場から人手によって運び出され、輿に乗せられたとき、不思議そうにこう言ったという。
「おれはもう坐っているのか。」
こういう自分の坐っているのかも分からないような者が、自分は生きているかどうか(…)知っていると考えられるであろうか。
─セネカ『人生の短さについて』12.7(茂手木元蔵訳、岩波文庫)
セネカの言うのは、時間管理を他人にゆだね、「時間を注意されて風呂に入る、輿に乗る、ご飯を食べる」と、一日を自動的に過ごしている人のことです。
また別の箇所でこうあります。
「何かの考えごとに熱中などしていると、旅人は旅も忘れ、行き先に近づいているのも知らないうちに到着してしまうものである。それと同じように(…)多忙に追われている者たちには、終点に至らなければそれが分からない」(9.5)
「君は多忙であり、人生は急ぎ去っていく。やがて死は近づくであろう」(8.5)
「生涯をかけて学ぶべきことは死ぬことである」(7.3)
と。
一方、カメのカシオペイアはどうでしょうか。彼女には30分先の未来が見えます。未来が見えると操り人形のような生き方になるかと言うと、その反対だと思います。なぜなら、その少し先の出来事に対して自分がどんな態度をとるのか、その点において自由を持ち、それによって現在をつむいでいると思われるからです。
カシオペイアのような、全体の結末を見通すことはできなくても、少しだけ先(=「現在」の死)を見据えながら時間をつむぐ生き方は、いつか来る終点に対しても自覚的であり、ホラの声を聞く態度なのだろうと思われます。
それは本読みにもたとえることができそうです。「少しだけ先を想像しながら」読むことは、流し読み、飛ばし読みとはちがって、じっくり味わうことになります。(そして読了もまた「すべての時間をさかのぼる」ことです)
モモの「暇」も素晴らしいですが、カシオペイアの少し先を読む「賢明さ」も見習いたいものです。
山下です。
ご指摘の『モモ』とセネカの関連はとても興味深く感じられます。
ホラという名前はHoraだとしたら、ラテン語のhora,-ae f.(時間)からとったものでしょう。
英語ではhourになりますね。
セネカの「人生の短さについて」を先週土曜日に講習会で読みました。
https://aeneis.jp/?p=11715
読むたびに読み落としがあることに気づきます。
100歳になろうという老人をつかまえて、人生の総決算をせまる文脈で、
「あなたがその生の中からどれほどわずかな時間しか自分のために残しておかなかったか。あれこれを思い出せば(百歳になんなんとする)あなたが今、亡くなるとしても、あなたの死は夭逝だと悟られるであろう」(大西訳、セネカ)
100-90=10歳!という計算ですね。
この90年の内訳を吟味すると、すでに10代の子どもたちにも「灰色の紳士」は接近し、時間をかすめとっている可能性が危惧されます。
山下先生、福西です。コメントをありがとうございます。
『モモ』を読むと、『人生の短さについて』を読み返したくなります。「長生きなのに夭折」というセネカの表現、ドキッとします。『人生の短さについて』自体、最後が夭折者(子ども)を弔う「松明」でしめくくられていることにも、改めて思いをはせました。
また、実際の10代の時間の大切さについては、リルケの『若き詩人への手紙』にある、次の一文を想起しました。
「それでもあなたにはまだあなたの幼年時代というものがあるではありませんか、あの貴重な、王国にも似た富、あの回想の宝庫が。」(高安国世訳)
ホラは、フルネームがマイスター・ゼグンドゥス・ミヌティウス・ホラ(原書ではMeister Secundus Minutius Hora)であることから(「秒、分、時」と並んでいることから)、「ホラ」の部分は「時」で、ラテン語のそれということですね。
山下です。
逆に「短命に見えて長寿」という可能性もあり、セネカはそれを推奨しているわけでしょう。
よく子どもは聞き分けがない、と言います。
また次のチャンスがあるから、と説得しようとしても頑として聞き入れません。
視点を変えてみれば、子どもこそ「この一瞬」の意味をよく理解しているのではないか、大人は「先送り」の癖がついているのではないか、と反省します。
どちらが正しいという話ではなく、今ふれた子どもの視点を理解できるかぎり、大人は2つの選択肢を得るわけですから、バランスをとることができるのでしょう。