
福西です。
『小公女』(バーネット、高楼方子訳、福音館書店)を読んでいます。
16章「泊りのお客」を読みました。
前章では、屋根裏部屋でのわびしいパーティーがミンチン先生に見つかってしまいました。非情な彼女の仕打ちによって、セーラは飢える寸前まで追い詰められます。しかし、そこから物語は一転します。ミンチン女学院の隣に住む「インドの紳士」のはからいで、食料、ベッド、暖炉にくべる薪、調度品、衣服が、屋根裏部屋に届けられます。だれの行いであるかは、セーラにはまだわかりません。けれども「もう一人ぼっちではない」ことは信じることができたのでした。
下記の表現が印象的でした。
傷ついた幼い心を自ら慰め(…てきた)セーラは、慰めや幸せを味わうことで、しだいにじょうぶになっていきました。
これまでのセーラは「つもりになる」ことで、自分を慰めて耐えてました。その空想が底を尽きかけたころ、自分以外の者からも慰められます。傷ついた心が死なずにすんだのです。
一方のインドの紳士もまた、亡き友人の遺児が、まさかセーラであるとは知りません。
その彼が、いよいよセーラのことを──この物語のもう一つのダイヤモンド鉱山を──発見します。
次回は17章「この子がその子だ!」です。