福西です。
中高生の「西洋の児童文学を読むB」では、『はてしない物語』を春学期に19章まで読みました。秋学期の10月中に読了する予定です。
そこで、2020年11月から読む予定の、次のテキストをあらかじめ紹介します。
『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)
大人も子供も関係なく、「人間」の時間をテーマにした忘れられない名作です。でも、名作だと言われるとかえって手に取りにくい作品の一つだと思います。そこで、あえて内容を少し紹介します。
物語の折り返し地点で、モモは時間の国にたどり着きます。そこで<時間の花>を見ます。次から次へと、水底から咲いては沈む花は、どれもその都度「これよりほかに美しいものはない」と感じられます。モモはそれを星の音楽として認識します。
それは音楽のようでいて、しかもまったくべつのものです。そのときとつぜんモモは気がつきました。まえによく、きらめく星空の下でしずけさに耳をかたむけていたとき、はるかかなたからひそやかに聞こえてきた音楽が、これだったのです。
──『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)12章
モモは、対面した<時間の花>を人間全員分なのだろうと思います。しかしそれがモモ一人分なのだと知って驚き、その見えない全体の豊かさに圧倒されます。
ところで、モモのすみかは円形劇場の廃墟でした。そこで夜になると、彼女は次のように観想するのが常でした。
こうしてすわっていると、まるで星の世界の声を聞こうとしている大きな大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれどもとても壮大な、えもいわれず心にしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。
──『モモ』(大島かおり訳、岩波書店)2章
この記述は、物語の最初にあります。つまり、モモが時間の国へ行って気がついたことは、元の世界でも<時間の花>からの音楽を自分が聞いていたということです。時間の国へ行かなくても、時間の豊かさは、今この時、星からの光のように受けて持っていると。時間の国は、それに気がつくための場所だったのです。
時間の国から帰ったモモは、みんなにも、時間の国で見たもの聞いたものを伝えようとします。それを「灰色の男たち」こと「時間泥棒」が邪魔します。なおかつモモのあとをつけて時間の国へ忍び込み、<時間の花>を盗み出そうとさえします。
そのように、時間の国へ行って終わりではなくて、後半の展開を持つことが、この作品の醍醐味です。テーマの普遍性だけではなくて、それを伝えるプロットの緊密さもまた、この作品のゆるぎない魅力だと思います。
初めて読む人には初めての、再読の人には再読の発見があるに違いありません。