福西です。
ウェルギリウス『アエネーイス』(岡道男・高橋宏幸訳、西洋古典叢書)の第4歌を読了しました。
と、すべては一瞬であった。熱は四散し、命は風の中へと消え入った。
─『アエネーイス』(岡道男・高橋宏幸訳、西洋古典叢書)
第4歌のラスト、ディードーの死の一節です。
受講生のA君の、次のような趣旨のコメントが、私の心に残りました。
「この作品は、神の意思(運命)と人間の意思(しがらみ)と、二本の軸が重なっているように思います。ディードーは神の意思から、アエネーアスは人間(ディードー)の意思から、逃げようともがいているように見えます。アエネーアスの行動はユピテルの命令に素直に従っている(ディードーはそれを邪魔している)かのようですが、アエネーアスの内面もディードーのそれと同じように、『どうやったら逃げられるだろう』と、もがいているかのようです」
と。
以前A君は、第2巻のトロイア陥落のくだりでも、「アエネアスは決して最善の行動をとっていないことに驚きました」と言っていました。その主人公としての紆余曲折ぶりが、第4巻でも見られると。
ディードーが運命(ユピテルの意思)に対してじたばたする様子は一読して分かりやすいのですが、A君が指摘する、アエネーアスもまた人間(ディードーの意思)に対してじたばたしている、という点は、私はまったく気付きませんでした。
以下は私の思いつきのレベルですが、第12巻のラストを連想しました。
第12巻で、アエネーアスはトゥルヌスの命乞いを受け入れるかどうか逡巡します。結局、「パッラスが、パッラスがお前を殺すのだ」と叫んで、とどめを刺します。このときのアエネーアスは、A君の「二つの軸の構図」から見ると、「(人間の意思から)逃げようともがくアエネーアス」として描かれていることになります。ここでの人間の意思とはおそらく、息子パッラスを失ったエウアンドルスの復讐心で、また神の意思とは「敗者には寛容であれ、融合してより大きなローマを築け」となるように思います。
ディードーとの別れで、アエネーアスは「イタリアへ向かうのは、私の本意ではない」と言います。トゥルヌスに対する「パッラスが殺すのだ」もまた、「私の本意ではない」と重なって聞こえてきそうです。
なぜアエネーアスはトゥルヌスにとどめを刺してしまったのかという、なぞに対して、A君の「アエネーアスは(人間の意思から)逃げている」というコメントをヒントに、考えて熱くなりました。
一人よりも二人で読むことのありがたさをしみじみと感じます。
次回から第5歌に入ります。
アエネーアースは終始ピウス(敬虔な)と形容されますが、このクラスで議論されたように、運命を疑い、ときには背を向けるか場面が多々あります(ディードーとねんごろになるのもその一例)。そもそも、この主人公が作品の最初に登場する場面を思い出していただくと、海の藻屑と消えるくらいならギリシアの武将と戦って死ぬ方がましであった、と運命を呪います。およそ英雄らしからぬデビューです。では共感を寄せることができないか、といえば話は別であり、徹頭徹尾運命に忠実な英雄として描かれていたと仮定したら、この作品は今に伝わらなかったでしょう。
山下先生、福西です。
コメントをありがとうございます。
>徹頭徹尾運命に忠実な英雄として描かれていたと仮定したら、この作品は今に伝わらなかったでしょう。
作者は「人間」を描くことで、作品に普遍性を与えた、ということですね。
受講生のA君とも、そのことについて、今後議論してみます。