「1+1=2」は本当に真理なのだろうか――数学における虚構主義
2019/10/28 入角晃太郎
数式「1+1=2」は数学的真理だと一般には考えられている。数学の授業で我々はさまざまな数学的真理を教わる。そして、数学的真理のなかには、「1」や「2」や「π」といった数学的対象が出現する。これら数学的対象がそもそも一体何なのかについて、まずは考えることにしよう。
日常世界の存在物が「いつ、どこに存在するか」を言うことができるのに対して、数学的対象は時空的位置を持たない。「花瓶は昨日机の上にあった」とは言えるが、「πは昨日机の上にあった」とは言うことができない。そして、時空的位置を持たないものは我々と因果関係を結べない。私は机を蹴ることができるが、3を蹴飛ばすことはできない。数学的対象は少なくとも、ふつうのものとは明らかに異なる在り方をしている。さらに進んで、数学的対象は存在しないと主張する立場もある。このような立場のひとつが虚構主義である[1]。1や2は存在しないのであるから、虚構主義によれば「1+1=2」は偽である。このことについてもっと深く考えるために、ここで、数学からは一旦離れて、次のような文を考えてみよう。
(1) シャーロック・ホームズはベイカー街に住んでいる。
文(1)は、額面通りに受け取れば偽であろう。ベイカー街の電話帳にホームズの名前はないからだ[2]。しかしながら、(1)はある種の真理を表現しているようにも思える。我々はある文脈において(1)を「正しい」と判断する。次の(2)と比較してみよう。
(2) シャーロック・ホームズは京都に住んでいる。
これは端的な「間違い」であろう。これと比べれば、(1)はまだ真理に近いような気がするはずだ。実際、(1)は次の文の省略形であると考えることができる。
(3) コナン・ドイルのフィクションによれば、シャーロック・ホームズはベイカー街に住んでいる。
(3)は文句なく真理であるといえるだろう。ここに現れる「……のフィクションによれば」は、虚構オペレーターと言われる。(1)は、虚構オペレーターを省略した文だったのである。(3)の文は虚構オペレーターのかかっているところでシャーロック・ホームズにコミットしているが、だからといって(3)の文章がホームズの実在を主張していることにはならない。「昨日の夢でドラえもんがどら焼きを食べていた」と私が言ったとしても、私はドラえもんが現実にいることを主張しているわけではないのと同じである(一方、私が「ドラえもんがどら焼きを食べていた」と言うなら、文字通りに取れば私はドラえもんが存在していることにコミットしていることになる)。
話を数学に戻そう。命題「1+1=2」は、「1」や「2」といった数学的対象の存在にコミットしてしまっている。しかし実際には、そのような数学的対象は存在しない。したがってこの命題は(1)と同じように、額面通りに受け取れば、真理とは言えない。つまり命題「1+1=2」は、(文(1)を文(3)に言い換えたように)省略せずにきちんと言うと、次のようになる。
(4) 数学というフィクションによれば、1+1=2である。
数学がフィクションだとは信じられない! 数学は真理を扱う学問ではないのか! しかし、虚構主義者によれば、「1+1=2」は、額面通りに受け取れば真理ではないのである。ただ、真理ではないとはいえ、命題「1+1=3」と同じくらい間違っているというわけでもない((2)と比較してほしい)。数学は有用ではあるが、有用であるために真である必要はないのである。(入角 晃太郎)
[1] 倉田(2017)
[2] ベイカー街はイギリスに実在する街である。
参考文献
倉田剛(2017)『現代存在論講義Ⅱ』、新曜社
山下です。
入角先生の「分析哲学の夕べ ──将棋(言語)に駒(実在物)は必要ではなく、駒を語ることさえできない──」(8/7)は大変興味深いお話でした。ご興味のある方は「見逃し配信」をご利用ください。ご案内まで。
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