西洋古典を読む(中高生)(2019/10/23)

福西です。

ウェルギリウス『アエネーイス』(岡道男・高橋宏幸訳、西洋古典叢書)を読んでいます。

第2巻の431から505行を読みました。

トロイア城内で猛威を振るうギリシャ軍。隊伍がばらばらになったアエネーアスは、王宮のプリアモス救援に向かいます。そこで、ネオプトレムスの登場です。このときのアエネーアスは戦闘に加わる機会を得られず、「わたしはこの目で見た」(vidi ipse)という目撃者になっています。そして出来事をディードーに(ウェルギリウスは読者に)語ります。

アンドロマケーやアステュアナクスという名前が出てきたことから、『イーリアス』第六巻のヘクトルとアンドロマケーの語らいを振り返りました。

そのあとの雑談で、受講生のA君が、『イーリアス』と『オデュッセイア』を比較してくれました。

『イーリアス』

アキレウスの性格(明)。行動する前は悩まないが、そのあとで悩む(暗)。明→暗。アキレウスにはストーリーを収束させる意思が感じられない(落としどころをアキレウスではなくて神々が思い描いている)。アキレウスが戦闘で倒す相手は、ヘクトル以外には特に深い動機がない。行動の終着点が変化し、むしろその変化によってストーリーが展開する。

『オデュッセイア』

オデュッセウスの性格(暗)。行動する前は悩む(全力で考える)が、あとは悩まない(明)。落としどころを決めたらそこへ向けて着々と段取りを遂行する。暗→明。オデュッセウスにはストーリーを収束させる意思が感じられる(落としどころを自分でも思い描いている)。オデュッセウスが殺すと決めた相手は、必ず殺される。予定を変えない。その結果、周囲がどうなっても知らない(→物語の外の例:パラメーデスの殺害)。行動の終着点が変化せず、むしろ変化させないことでストーリーが展開する。

A君のこの考察を、興味深く伺いました。ゴールを変えるアキレウスと、(ルートは変えても)ゴールを変えないオデュッセウス。物語の明暗の構造。

たしかに、『イーリアス』では、アキレウスはアガメムノンの殺害を(アテーネーの介入があったにせよ)思いとどまり、また返すつもりのなかったヘクトルの遺体を、プリアモスの行為に驚嘆して返しています。そこには「行動の終着点の変化」があります。一方、『オデュッセイア』ではポリュペーモスの目は傷つられけ、求婚者たちは皆殺しにされます。そこには「行動の終着点の不動」があります。

A君が言うには、「もし『イーリアス』でアガメムノンに激高するのがアキレウスではなくてオデュッセウスだったらどうなっていただろうか」ということでした。

また、「アキレウスとオデュッセウスという二人の違いで、二つの物語を比較すると、おたがいがより面白い」とのことでした。

そこにローマ的英雄のアエネーアスを加えると、どうなるのか。楽しみです。

次回もよろしくお願いいたします。