『無限論の教室』(野矢茂樹、講談社現代新書)を読んでいます。
「第九週」の後半を読み終えました。
対角線というのは、自己言及を作り出すしかけになっていたんだ。
ということを見ました。
対角線論法と、ラッセル集合を考える「意味」とが出会いました。
このテキストの一つのクライマックスです。
p158の図と、以下の定義を、暇があれば何度でも往復してほしいと思います。すぐは分からなくても、そのうちに「!」となります。
(テキストp158の対角線論法とラッセル集合とを表す図)
定義
(x,y)=0 ⇔ yはxを要素に持たない
(x,y)=1 ⇔ yはxを要素に持つ
この定義から、y=xの場合、つまり(x,x)について考えます。(「要素に持つ」は「中身にある」という意味です)
たとえば、
(犬の集合、犬の集合)=0
⇔ 犬の集合は、犬の集合を要素に持たない
は真です。
なぜなら、マルチーズも柴犬も「犬の集合」の要素ですが、その全体は「犬ではない何か」(概念であって生き物ではない)で、要素ではないからです。
同様に、
(犬ではない集合、犬ではない集合)=1
⇔ 犬ではない集合は、犬ではない集合を要素に持つ
は真です。
なぜなら、「犬ではない集合」は、犬ではないから、「犬ではない集合」の中に入ります。
(流し読みだと「?」となると思いますが、立ち止まって考えれば、「な~んだ」となる箇所です)
上の例から、
犬の集合は「自分自身を要素として持たない集合」、
犬ではない集合は「自分自身を要素として持つ集合」
になります。
そして「ラッセル集合を作る」ということは、上の例の「犬の集合」、(x,x)=0であるような集合をみんな集めてくる、ということです。
集める、つまりその存在を=1とすることが、対角線論法において「0を1に反転させる」という作業に相当します。
同様に、(x,x)=1であるような集合をみんなはじくことが、「1を0に反転させる」ということです。
そしてそれがp158の図の交点において、パラドックスを起こしている! というわけです。
突然失礼致します。
私はいま「無限論の教室」を読んでいます。
「『犬ではない集合』は、犬ではないから、『犬ではない集合』の中に入ります」
がよくわからないのです。
いやおっしゃることはわかる気がするのです。
内包的に集合の定義をしてらっしゃるのだと思います。
でも外延的にこの集合を構成しようとすると、よくわからなくなります。
例えばこの世がA,Bのみからなり、Aは犬、Bは犬ではないとします。
このとき「犬でない集合」をNInuとすると
NInu={B} ({…}は…を要素として持つ集合を表す)
かと言われると違うと思います。
{A}も犬ではないですし、
(「犬の集合」に「犬の集合」が含まれないとは、{A}が犬ではないということですよね)
いやそれを犬ではないというなら、{B,{A}}だって犬ではないですし。。。
さらにはNInuは犬ではないのでNInuを要素として持つはずです。
ですので、NInuは形式的には
NInu={NInu, …}
という漸化式のような関係を満たすはずです。
しかしこれを満たすNInuなど存在するのでしょうか。
上記漸化式のNInuに整数のラベルをつけ、NInu(n) (n=0,1,2,…)とし、
NInu(n+1)={NInu(n), …}
の初期値NInu(0)に何かを設定してNInu(n)を任意のnについて求めることは可能です。
しかし今ほしいのはNInu(n=∞)だと思います。
NInu(n=∞)は、入れ子的な構造が無限に続き”収束”せず、存在する気がしません。
実無限を許すような立場では、内包的な定義さえできればそれでよいかもしれません。
しかし直観主義ではあらゆる数学的対象を操作的な方法で決定できないといけない気がします。
自然数の構成は無限に続き収束もしないですが、
直観主義でも自然数の集合は総体として存在することを認めるようなので、
同じようにNInuも存在していると考えるのでしょうか。
というか、結局これは「ラッセルのパラドックス」の別表現な気もします。
この「おかしさ」を矛盾の形できちんと示したのが「ラッセル…」なのでしょうか。
ちなみに、「tnomuraのブログ」に、同じような考察があります:
https://tnomura9.exblog.jp/21945210/
もしこれに関して何かご存知でしたらご教示頂けますと幸いです。
長文失礼致しました。
kotokoto様
福西です。
>直観主義ではあらゆる数学的対象を操作的な方法で決定できないといけない気がします。
この点は私にもよく分かりません。お力になれずにすみません。
テキストの範囲内で述べると、無限集合について、「無限集合全体」というものを、集合の「要素」として認めてしまうことが、まわりまわって、パラドクス(対角線での「1=0」という交差点)を生じるのだと、私は理解しています(ちがっていたらすみません)。
「無限集合全体」というものを、集合の「要素」として認めると、集合の中にその集合全体が入り、さらに……と、無限に入れ子状態の集合ができます。(kotokoto様が漸化式で表されたように)。ラッセルはそんな集合を集合と認めたら、「こんな変なことが起こるよ」と言っているのだと思います。
>結局これは「ラッセルのパラドックス」の別表現な気もします。
ラッセル集合は、テキストではラッセルのパラドクスを示す準備であるので、「同じこと」と言えばそうなると思います。
福西様、
お返事ありがとうございます。
あまりこだわるところではないかもしれませんね。
おっしゃるように、結局はこんな集合の存在を認めると矛盾が生じると示しているわけですし。
この本では無限集合に関し、それを構成する具体的な方法の存在に非常に拘っています。
例えばP163には「(直観主義では)無限集合とは、その集合を作り出す方法・規則にほかならない」とあります。
そのため、学生が実無限的立場(=具体的構成法のない無限集合を認める立場)の発言をすると
「愚劣」「最低」などとひどく罵ります。
にも関わらず、
「『犬でない集合』に『犬でない集合』は要素として含まれる」
に関しては、「犬でない集合」が存在することを当然のように認めて話を進めています。
多少はその構成に関し言及してほしいと思いました。
この点がなんだか納得いかないこともあり、長々と書き込みをしてしまいました。
ご容赦ください。
kotokoto様、福西です。
>「犬でない集合」が存在することを当然のように認めて話を進めています。
>多少はその構成に関し言及してほしいと思いました。
なるほど。kotokoto様のテキストに対する疑問点を理解いたしました。
「集合が存在するなら、その構成方法も具体的に示してほしいのに……」
ということだったのですね。私はその点でテキストを鵜呑みにしていました。
そして、その構成方法も私にはわからず、お答えできなくてすみません。
福西様、
さきほど気づいたのですが、2019/6/20の記事(1つ前の記事)の
「5 犬そのもの(テキストにある例)」
に全く同じ考察がありますね。
ちゃんと読めばよかったです。
失礼しました…
kotokoto様、福西です。
いえいえ、とんでもありません。
過去の記事についてもお読みくださり、
ありがとうございました。