0606 山の学校ゼミ(倫理)

浅野直樹です。

 

スピノザの完結編です。

 

スピノザは『エチカ』の中でデカルトを痛烈に批判します。精神と身体とが分かれていて、精神によって身体を自由にコントロールできるというデカルトの発想を全否定します。

 

精神によって身体を自由にコントロールできないならば、理性にできることは何もないのでしょうか。そんなことはありません。自分の感情を認識することができます。

 

 何らかの結果が出てこないものは何も与えられず(第一部命題三六より)、またわれわれのうちで十全である観念から出てくるものは何であれ、そのいっさいをわれわれは明晰判明に解るのであるから(第二部命題四〇より)、ここから、一人一人が自分と自分のもろもろの感情とを、たとい絶対にではなくても、少なくとも部分的には明晰判明に解って、その結果それらからはたらきを受けることを少なくする能力をそなえるということが出てくる。
そうすると何よりも労力をかけられるべきことは、めいめいが感情をできるかぎり明晰判明に認識し、そういうふうに明晰判明に覚知するものを思うこと、精神が感情から決定され、そうしたものにすっかり落ち着くこと、こうして、感情そのものがそとの原因への思いから隔てられ、真の思いとつなぎ合されることである。そこからはたんに愛や憎しみなどが破壊されるだけではなく(この部の命題二より)、そうした感情から起るのが常である衝動ないしは慾望が行き過ぎになりえない(第四部命題六一より)ということも生じる。
なぜかといえば、人がはたらきを行うと言われる場合と、はたらきを受けると言われる場合とで、そのゆえんとなる衝動は一つの同じものであることにとりわけ注意すべきだからである。たとえば、われわれが示したところでは、人間の自然の性は、めいめい、ほかの者の生きかたを自分の素質にしたがわせることを欲するようなぐあいに出来ている(第三部命題三一備考を見よ)。この欲求衝動は、理性によって導かれない人にあってはなるほど「野心」と呼ばれる受動の情念であり、思い上りとたいして違わない。が、それと逆に理性の指図に合せて生きる人にあっては能動のはたらき、言いかえると器量であり、「親切心」の名で呼ばれる(第四部命題三七備考一と同じ命題の二番目の論証を見よ)。このように、すべての衝動ないし慾望は、ただ不十全な観念から起るかぎりでのみ、受動の情念である。そうして十全な観念によって呼び起され、あるいは生成させられるときには、それらは器量に算え上げられる。じっさい、何かを行うことへわれわれを決定づけるいっさいの慾望は、不十全な観念によるのと同じくらい十全な観念によっても起ることができるからである(第四部命題五九を見よ)。
そして、(脇に逸れた前の所に還ると)感情に対する薬、それは感情を真に認識することに存する。われわれの能力にかかっていることで、この薬よりも上を行くものをほかに何も考えつくことができないのは、さきにわれわれが示したとおり(第三部命題三より)、精神の力としては、思うこと、また十全な観念をつくることよりほかには何も与えられないからである。

(スピノザ著、佐藤一郎訳『スピノザ エチカ抄【新装版】』(みすず書房、2018)pp.222-224)

心理療法の業界で最近流行りのマインドフルネスに通じる考え方です。