福西です。
『無限論の教室』(野矢茂樹、講談社現代新書)を読んでいます。
第四章のおさらいと、第五章の途中まで音読しました。
最近は、質問を一人10個考えてもらっています。
そのアンサーで、次のような説明をしました。
有理数=有比数=比で表せる数=分数にできる数
無理数=無比数=比で表せない数=分数にできない数
こう思ってよいです。なーんだ、という感じだと思います。
または、
有理数=分数=有限小数と、循環小数(規則性のある無限小数)
無理数=それ以外(規則性のない無限小数)
と言い直すことができます。
1.41213562=1412113562/100000000 →有限小数はすべて分数に直せます。
また0.333…=1/3 →規則性のある無限小数も分数に直せます。
一方、
√2=1.414213562…は、無理数です。(「…」があることに注意)
「〇×〇=2になるような〇のこと」を、√2と呼びます。
その√2(に近い数)を得ることを、電卓で体験をしました。
1.4×1.4=1.96
1.5×1.5>2 ×
1.41×1.41=1.9881
1.42×1.42>2 ×
1.414×1.414=1.93996
1.415×1.415>2 ×
…
2を境に行ったりきたりすることで、「位に入る数が、無限に、不規則に続くなあ」という実感を得てもらいました。
また、「1辺2の正方形(面積4)から、面積2の正方形を作る」という問題を考えました。
そのとき、折り紙のざぶとん折りから、√2が何を意味するのか、視覚的に納得しました。
(元ネタは、プラトンの『メノン』という本です)
テキストでは、集合の「濃度」という新しい物差しが登場しました。
濃度は、集合の要素の個数のことです。個数の多い方が「濃度が大きい」と言います。
その濃度をくらべる時に使う道具が「一対一対応」です。
一対一対応とは、集合Aと集合Bの要素を1つずつ取り上げ、ペアを作っていくことです。
集合の要素が有限個の場合は、なんの変哲もありません。
玉入れのときを思い出すと、「いーち、にーい」と同時に玉を1個ずつ放り投げていき、片方がなくなった時点で、ストップします。そして玉の余ったチームの方が玉の数が多いとわかります。これを「濃度が大きい」と表す、というわけです。
問題は、要素が無限個の場合です。
直線Aから、線分Bを切り取ります。直線には無限個の点が含まれます。線分にも無限個の点が含まれます。この二つを、集合A、集合Bと呼ぶことにします。
「大きさ(長さ)」という物差しでは、
A>B
です。なぜなら、Aは全体で、Bはその部分だからです。
けれども、
「濃度(個数)」という物差しでは、
A=B
となります。(その説明がテキストでなされます)
このように、話に無限が入ってくると、「部分=全体」といった、常識では「?」となる話が出てきます。
その話の延長で、1次元の線分、2次元の面、3次元の立体、(以後、4次元の胞、5次元の胞……)は、みな、内部の点(要素)に一対一の対応がつけられるので、「同じ濃度」を持ちます。
さて、そこで疑問が生じます。
それならば、「どんな」「無限集合」も、同じ濃度を持つのだろうか?(1種類しかないのだろうか?)と。
というわけで、
自然数という無限集合(点線)と、実数という無限集合(実線)の濃度をくらべる話になりました。
はたして、濃度は一緒なのでしょうか? 違うのでしょうか?
次回は、カントールという人の考えた「対角線論法」という、一つの山場です。
山下です。
記事を読ませていただき、数学は練習問題を解くだけの科目ではない、ということをあらためて感じます。
子どもたちには考えることの難しさと面白さを存分に味わってもらいたいと願いますし、自分も子ども時代ならこのクラスに参加したかったと思います。
本当はどの科目もそうなのですが、数学はとくに考えることの喜びを純粋に味わえるはずの科目なので、このことを強く思います。
山下先生、福西です。
コメントをありがとうございます。
>考えることの難しさと面白さ
このクラスで、心から「有難い」と思うのが、受講生お二人ともが
「質問をよく発してくれる」ことです。
テキストと、(決して分かりやすいとは言えない)私の説明に対して、
受け身にならずに。
分からない。だから読む。
ノートに質問を書く。
そして、少し分かった。
だから読む。じわじわと。
そのような流れをよしとしてくれる、
受講生のモティベーションに支えられながら、
またそれをより引き出せるように、クラスを作りたいと思います。