「無限論の教室」を読む(2019/4/18)

福西です。

『無限論の教室』(野矢茂樹、講談社現代新書)の第三章を音読しました。

クラスの残り10分で、白紙を1枚渡しました。その真ん中に線を引いて、半分には「わからなかったこと」を、もう半分には「わかったこと」を、箇条書きにしてもらいました。これを淡々と、毎週続けていこうと思います。「わからなかったこと」が来週の質問に使えると思います。

さて、テキストでは、タムラ先生の説明に、二つの立場が登場しました。

実無限は、無限は現実に存在するという立場。

可能無限は、無限は可能性として考えられるだけで、実在しないという立場。

「点の無限個の集合が本当にある。それが線を構成するんだ」というのが、実無限の立場。(理想主義)

「線がまずある。その切断を考える。切断したまさにそこが点である。切断を繰り返して点を無限個指摘するというのは、あくまで考えられるだけ(はてしない可能性があるだけ)」というのが、可能無限の立場。(現実主義)

ここで、アリストテレスがちょこっと出てきます。彼はタムラ先生によれば、可能無限の立場で、先週見た「アキレスと亀」の、アキレウスによる実況中継を、アキレスの運動そのものと分離します。つまり、自分に対して自分の実況中継をしようと試みるから、話が矛盾するのであって、アキレスと亀の運動を外部から見ている実況者を立てれば矛盾しない、と考えます。

その外部実況者が「さあただいまアキレスが第1ポイントを通過しました、第2、第3…10000…100000…」という中継を、後半ものすごいスピードでまくしたてようと、そんな苦労は(もし可能なら)彼に勝手にやらせておけばいいのです。アキレスの耳には入りません。そして、実況者が(過去の)説明で手間取っている間に、アキレスはさっさと亀をまたいでしまえばいいのです。つまり、「アキレスが亀を追い越すという現実は、それに対する実況者の雇用を生む可能性を持っているが、アキレスと実況者の苦労は別ものだ」と割り切るのです。

ビデオの撮影時間と編集時間とは別だ、という言い方もできるかもしれません。(たとえ編集に無限時間かかろうと、撮影時間が有限であって何らおかしくない)

また「飛ぶ矢は飛ばない」(矢は無限個の中間点を通らなければならない)というパラドックスも出てきました。

 

さて、先週の宿題、「ゼノンはなぜこんなことを考えたのか?」についてです。

『初級者のためのギリシャ哲学の読み方・考え方』(左近司祥子、だいわ文庫)という本を読みました。

それによって、私は次のように理解しました。

ゼノンにはパルメニデスという師匠がいた。パルメニデスにはヘラクレイトスというライバルがいた。ヘラクレイトスは、「万物は流転する」という主張をした。生成消滅するのが自然の正体だ、と。けれどもパルメニデスは「それは本当ではない。人間にそう見えているだけだ。目に見える世界の背後には目に見えない永遠不滅の実体があるのだ。こっちが大事だ」という主張をします。ゼノンはこのパルメニデス師匠を援護するために「アキレスと亀」や「飛ぶ矢は飛ばない」の例を考案した。「運動(生成消滅)はない。あるのは(背後に隠された)永遠だ」ということが言いたかったのだ。と。

いまの私はこれぐらいしか分からないので、引き続き勉強します。