『フランス語講読』クラス便り(2019年2月)

「山びこ通信」2018年度号より下記の記事を転載致します。

『フランス語講読A・B』

担当 渡辺洋平

 フランス語講読Aの授業は、2017年の秋から哲学者アンリ・ベルクソン(Henri Bergson 1859-1941)の『物質と記憶Matière et mémoire』(1896)を読んでいます。現在は最終章である第4章の終盤に差し掛かっており、読了が見えてきました。残すは第4章の残りと結論、そして飛ばしておいた序文となります。遅くとも春学期最初の数回で読み終わることになるでしょう。

さて、『物質と記憶』の最終章である第4章は、精神と身体の区別とつながりについての議論で閉められることになります。精神を物質に還元する唯物論、反対に物質を精神に還元する観念論、そして精神と物質両者の存在を肯定する二元論が検討され、そのいずれもが両者の関係を十分説明することができないとされます。それは、結局のところ、精神と物質を〈空間の内に存在しているか否か〉という視点から区別しているためです。このように区別されてしまうと、空間の内に存在する物質や身体と、空間の外にあり、三次元の拡がりを持たない精神がどのようにして関係し合うのかが分からなくなってしまうのです。(これは心のありようを脳の働きから説明しようとする現代の脳科学に対してもあてはまる批判でしょう。というのも、ある脳の状態が一定の感覚を引き起こすのだとしても、それはあくまでも観察される対応関係でしかなく、「なぜ」そうなっているのかが分からないからです。)

それに対しベルクソンは、精神と物質の区別は「時間」の観点からなされるべきだと言います。つまり物質は過去を記憶することがなく、ひたすら「現在」のうちに留まり続けるのに対し、精神は記憶によって過去を保持し、それを用いることによって単なる繰り返しとは異なるなにか新しいものを世界に付け加えるのです。この意味で、物質と精神のあいだにある差異は、記憶力によって保持される過去の度合いの差異なのであり、私たちの精神ないし意識とは、記憶によって生み出されるものなのです。そして重要なのは、より多くの過去を保持することによってより多くの自由が獲得されるとみなされている点です。過去を保持することのできない物質がつねに必然的な法則にしたがうのに対し、精神は、意識的であれ無意識的であれ、過去の経験を生かして行動することによって必然性の連鎖から抜け出すことができます。ここに単なる物質的必然性に回収されない自由な行動の萌芽があるのです。

自由の問題はベルクソンがデビュー作『時間と自由』(1889)以来問い続けてきた問題ですが、この問いは、次の著書『創造的進化』において生命の進化との兼ね合いでいっそう展開されることになるでしょう。生物の進化とは、まさに過去を蓄積することから生じるものなのです。

 

フランス語講読Bのクラスは、さまざまな事情が重なり現在は休講中です。再開時期はまだ未定ですが、休講前はアンドレ・ジッド(André Gide 1869-1951)の『田園交響楽La symphonie pastorale』(1919)を読んでいました。再開に際しては、読んでいた箇所のつづきから始めたいと思います。

Aクラスはもうすぐテキストが新しくなりますし、Bクラスも再開にあわせると入りやすいかと思います。また、その他フランス語で読んでみたいテキストがある場合等もご気軽にお問い合わせいただければと思います。

【追記】

Aクラスの4月からのテキストが決まりました!

アンリ・ベルクソン『時間と自由』(1889)
原題:『意識に直接与えられたものについての試論 Essai sur les données immédiates de la conscience』

フランス語で難しめの文章を読んでみたい方、哲学書を原語で読みたい方、ベルクソンに興味がある方等のご参加をお待ちしています。文法事項も適宜解説しますが、簡単な文章はある程度読める方が望ましいです。