「山びこ通信」2018年度号より下記の記事を転載致します。
『ロシア語講読』
担当 山下大吾
丁度一年前、2017年度の冬学期にプーシキンの『ベールキン物語』を読み終えた本クラスは、ゴーゴリの『鼻』、トゥルゲーネフの『猟人日記』からの一編「生けるミイラ」と読み進め、この一月からはドストエフスキイの『ボボク』に取り組み始めたところです。受講生は以前と変わらずTさんお一方で、毎週マンツーマンの授業が続いております。Tさんの予習に対する取り組みの姿勢もこれまでと同様あるいはそれ以上で、毎回数ページ分に渡るノートを手元に授業に臨んでおられます。
上に挙げた作品はいずれも短編あるいは短編集で、『鼻』以降はGleb Struve編集のロシア語読本を副教材にして、その英訳や註解も参照しながら、ロシアや旧ソ連で出版されたテクストを基に読み進めています。読本には、ロシア語を音読する際に必ず調べなければならないアクセントが逐一振られており、若干のミスが認められるものの、大半の面倒な作業から解放されるためその点非常に便利です。程よい期間に読み終えられるため、一編ごとの印象が、全体から細部に至るまでほぼ満遍なくはっきりと記憶に留まるのは、短編講読の魅力の一つと言えるでしょう。
その中でも「生けるミイラ」の主人公ルケーリヤの姿は、一際鮮やかな形で思い起こされます。明るく快活で村一番の器量よしだったものの、不慮の事故から寝たきりの状態となり、ミイラ同然の姿へと変わり果ててしまったルケーリヤ。それでも何一つその境遇に不平を漏らすことなく、全てに感謝を捧げながら日々を暮らしています。その彼女がある日夢の中で見た、光り輝く若い有翼のキリストの姿、彼に手を伴われ、以前の若く美しい容姿のまま天国へと舞い上がる様…。実話に取材したとされるこの作品は、聞こえるはずのない教会の鐘の音に包まれながら永眠する彼女の姿を、猟人たる語り手が物語る形で幕を閉じます。ここでは、作品冒頭に掲げられたチュッチェフの詩行と響き合いながら、慎ましくも限りない、崇高とも言える美の結晶が描き出されています。
抒情豊かなトゥルゲーネフとはがらりと雰囲気の異なる、擬声語豊かでぶつ切りな印象のドストエフスキイ独特の口調にも漸く馴染んできたところです。この先どのような世界が展開されるのか、毎週楽しみにしながら木曜の昼下がりのひと時を迎えております。