浅野直樹です。
39節から41節の途中まで進みました。
このあたりの議論はスリリングです。人間の外部にある現実を理解するという姿勢から、人間の感覚はだまされやすいので外部にある現実を認識できるとは限らないので人間が作り出したもの(数学など)を理解するという姿勢に転換したという内容の議論です。デカルトがその端緒であり、最近では自然科学でもそのような限界が意識されてきているとのことです。
山の学校は小学生から大人を対象とした新しい学びの場です。子どもは大人のように真剣に、大人は子どものように童心に戻って学びの時を過ごします。
浅野直樹です。
39節から41節の途中まで進みました。
このあたりの議論はスリリングです。人間の外部にある現実を理解するという姿勢から、人間の感覚はだまされやすいので外部にある現実を認識できるとは限らないので人間が作り出したもの(数学など)を理解するという姿勢に転換したという内容の議論です。デカルトがその端緒であり、最近では自然科学でもそのような限界が意識されてきているとのことです。