西洋古典を読む(2018/12/19)(その2)

福西です。

『人生の短さについて』(セネカ、茂手木元蔵訳、岩波文庫)を読了しました。

A君、おめでとうございます。

最後20章の、A君の要約です。

高官や名声を高めている人を恨んではいけない。彼らは自己の時間をたった一年のために空費する。これを目指した者の中には運命に見放された者もいるし、愚かさに気付き嘆いた者もいる。他人のために努力し倒れてしまった者はきわめて見苦しい。

多忙のなかで死ぬのがどれだけいいだろうか。人は老年になりのけ者にされることを嘆く。人が暇を得るのは法から得るよりも難しいのである。誰一人として死を見つめないが、人生を終えた後の段取りを決めている。この人々は、葬式を豪華にしようとしているが、このような人の葬式は松明と蝋燭をともして行われるべきである。

セネカの言う「他人のため」というのは、政治的野心で自分に利益(名誉)が返ることを期待して、あるいは上下関係のしがらみで、という意味です。(皇帝に仕えるセネカも例外ではなくて、むしろ死活問題)

また、最後の「松明と蝋燭をともして」というのは、ローマの風習で、子供が死んだときの葬式を夜に行う(よって松明が必要になる)ことを指しています。つまり、(セネカから見れば)多忙な人生は、「たんなる時間」と呼ばれる部分が大部分で、圧縮すると、人生と呼べるコアな時間は少ししかないことになります。それなので、豪華な葬式などではなく、夭折用の葬式がふさわしい、というかなりの皮肉です。

 

最後に、『人生の短さについて』の講読で、生徒A君とのこれまでの「時間」を通して得た、私なりの解釈をまとめます。それは以下の図になります。

  図 暇と多忙、9.1「ただちに生きよ」と、17.5「惨めな生活の終わりが求められるのではなく、始めが変わるだけである」の関係

 

「今(ここ)」に立つ矢印:ただちに生きよ(Protinus vive)。つまり、普遍を見つめること。

「多忙平面」にはりつく矢印:惨めな生活の終わりが求められるのではなく、始めが変わるだけである(Miseriarum non finis quaeritur, sed materia mutatur)。つまり、普遍に対するよそ見のこと。同時に、死を忘れて生きること。うらやましくなって、人のすることに「これだ」と思って飛びつく→途中で「これじゃない」と嫌になってやめる。また、いろいろな欲望(道楽)の対象に入れ込む→飽きる、の繰り返し。

(暇:otiumの訳、多忙:occupatioの訳)