前川です。
前回はセネカ「ルキリウスへの手紙」24の18節から20節の初めまで読みました。冥界の苦しみについての神話的な事象を否定はせずに、しかしそのようなことに恐れるほど子どもではない、と述べます。理解によって恐怖は克服できるということでしょう。これは「知らないことは恐ろしいが、分かってしまえばそうならない」という人間の心理を明らかにしています。
今日の一文。
Mors nos aut consumit aut exuit.
「死は我々を食いつくすか、自由にするかである」
24章のテーマが「死を見下すことについて」であることを考えると、死への過度の恐れは人生を無駄にしかねないが、死を軽蔑すれば我々の心は自由になるのだ、ということでしょう。逆に言えば、当時の社会においていかに「死」が恐れられていたかを感じさせる言葉です。
春学期は今回で終了します。次回は9月です。
いつも授業のレポートを楽しみに読ませていただいています。死の恐怖を追放するというモチーフでいえば、ルクレーティウスの作品(De Rerum Natura)を思い出します。立場はエピクーロス派ですが、セネカの考えに(多少?大きく?)影響を与えているように思います。
「暗闇で子どもがおびえるように、人は死を恐れる。光がともれば恐怖は消える。同様に、人間の生死も含め、自然現象を正しく理解すれば、死についておびえることはなくなる」。
ここからが違うのですが、「なぜなら人間の魂も原子からできているゆえ、死と同時に解体する。死後を恐れようにも、恐れる主体である己も解体しているのである。生あるうちに死はなく、死において生はない」。たしか、こんなことを述べていたように記憶します。
なんとか「頭で」死の恐怖を追い払おうとしているように見受けられます。セネカは頭でと言うより、心構えで勝負している気がします。個人的にシンパシーを感じます。