浅野です。
3章「労働」の終わりのほうまで進みました。
古代ギリシアの奴隷労働は市民が政治参加するために必要なものという意味で自然なものではなく、近代の労働する動物が行う労働とは異なり、近代の労働の私性に対応するのは古代では痛みだということで、痛みの議論がしばらくなされます。
それから16節では道具や分業の話がなされます。職人(仕事人)が使う道具と労働者が使う道具は異なる、専門分化と労働の分業は異なる(後者の労働は取り替え可能である)といった主張をおもしろく感じました。
山の学校は小学生から大人を対象とした新しい学びの場です。子どもは大人のように真剣に、大人は子どものように童心に戻って学びの時を過ごします。
浅野です。
3章「労働」の終わりのほうまで進みました。
古代ギリシアの奴隷労働は市民が政治参加するために必要なものという意味で自然なものではなく、近代の労働する動物が行う労働とは異なり、近代の労働の私性に対応するのは古代では痛みだということで、痛みの議論がしばらくなされます。
それから16節では道具や分業の話がなされます。職人(仕事人)が使う道具と労働者が使う道具は異なる、専門分化と労働の分業は異なる(後者の労働は取り替え可能である)といった主張をおもしろく感じました。