「山びこ通信」2017年度秋学期号より下記の記事を転載致します。
『ことば』3〜4年・4〜5年
担当 福西 亮馬
最近、幼稚園の子供たちを引率をしていて、はっと気づいたことがあります。冷たい秋雨が降っていた日の、お帰りでのことです。石壁にかたつむりを見つけました。二匹目、三匹目、四匹目。「今日はたくさんいるなあ」と、歩きながら、子供たちと一緒に見て通りすぎると、年少児のSaraちゃんが、「なんでなん?」と質問しました。すると年長児たちが「それは、雨が好きだから」「お家ごと動いているから」と教えてくれました。
しばらくたってから、またSaraちゃんが「なんでなん?」と口を開きました。「え、何が?」とたずねると、「……レインコートがないの?」と。
私はしばらくそのなぞかけに、頭の中をかき乱されました。それから、(ああ)、と彼女の認識したであろう不思議な光景に心を打たれました。今、子供たちは列を作り、黄色いレインコートを着て、山道を下りています。みんなにはそれぞれレインコートがある。なのにかたつむりにはない。『なんでなん?』というわけです。
ここで解釈が分かれると思います。レインコートは決して快適な着物ではない。だから何もなしでいられるカタツムリがうらやましい、というのが一つ。人間には雨具がある。だからカタツムリにもそれを着せてあげられたら、というのが一つ。前者は活動的な晴れ間に対する願い。後者は慈しみ、「猿も小蓑を」の境地です。いずれにしてもSaraちゃんが、その場にいる誰もが言葉にしなかったことをも小蓑を」の境地です。いずれにしてもSaraちゃんが、その場にいる誰もが言葉にしなかったことを言葉にしてくれたおかげで、あらためて人間とカタツムリの違いを、「それ」と気づくことができたのでした。
『決定版 一億人の俳句入門』(長谷川櫂、講談社現代新書)で、筆者はこう述べています。
はっと驚く。そのためには二つの条件がそろわなければならない。一つは、それが作者だけでなく読者の心のなかにもひっそりと眠っていること。もう一つは、まだ誰もそれを言葉にしたことがないこと。無意識のうちに感じていることを言葉にしたものをみたときに、人ははっと驚くのだ。
授業では、上のような体験を貴重だと思って取り組んでいます。3~4年生クラスでは、俳句を中心に取り組んでいます。ここでは一句ずつ紹介します。
暗くてもキンモクセイは明るいよ Fuka
大もんじよこから見たらかさなるよ Yu
すごいかぜすいみん中に野分かな Uta
たけの中水がいっぱいたまってる Yusuke
きのこさん木についててねかわいいね Ayaka
「決して意識にのぼることのないもの」を無意識と定義するならば、それをくみ取ることは矛盾に満ちた不思議、あるいは難事だと言わざるをえません。しかし、俳句をはじめ文学という形式は、それに立ち向かう姿を映しているのだと私は思います。
さて4~5年生クラスでは、『二分間の冒険』(岡田淳、偕成社)を読んでいます。残すところあと三十ページほどとなりました。黒猫に「時間をおくれ」と言ったことで、「別世界での二分間」をもらった悟が、その世界にいる竜と戦いながら、隠れた黒猫を見つけ出す物語です。黒猫は「この世界でいちばん確かな姿」をとっています。悟は最初、それを剣だと思い、次に竜、そして仲間のかおりだと思います。果たして黒猫はだれ(あるいは何)なのでしょうか?
悟は、岩から「竜をたおす剣」を引き抜いたことで、自分を「選ばれたもの」だと思い込みます。しかし太郎という少年の示した行動のおかげで、まだ取り返しのつくうちに、その欺瞞に気づきます。悟はみんなの心から「とげ」を抜きます。そして少年少女たちは、お互いに「選ばれたものではない」ことを周知し、協力体制を築き、竜に今までとはちがう「知恵の戦い」を挑みます。なぞなぞ形式に仮託した物語の終幕に向けて、音読にも熱がこもります。