『フランス語講読 A・B 』クラス便り(2017年11月)

「山びこ通信」2017年度秋学期号より下記の記事を転載致します。

『フランス語講読 A・B 』

担当 渡辺 洋平

 フランス語講読Aのクラスは、引き続きフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』を読んでいます。例年と同じく夏休み中も開講され、現在は第2章の中盤に差し掛かっているところです。
 これまでの山びこ通信で、『物質と記憶』の第1章が、記憶の介入しない知覚、すなわち「純粋知覚」を対象としていることを書きました。時間的な言い方で言い直すならば、それは過去の入りこまない現在を考察対象にしていたと言うことができます。それに対し第二章で考察されるのは、「記憶」ないし「思い出」であり、したがって「過去」に関する事象です。
 ベルクソンは第2章の冒頭から、声に出して繰り返すことで課題を暗記するという例をあげながら2種類の記憶を区別していきます。日本でも、百人一首や和歌、英語の動詞の活用などを中学校や高校で暗記した人は多いでしょう。何度も繰り返すことで、記憶は堅固になり、安定したものとなります。しかし、例えばある和歌を10回口に出して覚えた場合、この一回一回の音読は、他には還元されない独自の体験であり、経験です。1回目の音読は2回目の音読とは違いますし、3回目の音読もまた、1回目2回目と同様に、一回限りの経験です。したがって、音読によって和歌を覚える経験において、ひとつは一回一回の個別の音読の記憶、もうひとつは繰り返されることによって暗記された和歌そのものの記憶という2種類の記憶があることになるのです。
 ベルクソンによれば、これらふたつの記憶の違いは根本的なものです。なぜなら一方の音読の記憶は、その本質において繰り返されることのできない一回限りの行為の記憶であるのに対し、他方の和歌の記憶は繰り返しによってしか形成されないものだからです。そして前者を自然発生的記憶、ないし思い出イメージ(image-souvenir)、後者を運動メカニスムと呼び、両者がどのように関係し、日常的な認識が構成されているのかを問うていくのです。一見すると、後者の記憶の方が、記憶を考察するのに適しているようにも思われますが、日常生活において何かを繰り返して覚えることは稀であり、むしろ一回限りの出来事を記録するという点に、ベルクソンは記憶の典型的なあり方を見ています。このふたつの記憶の区別は、『物質と記憶』全体にとっても非常に重要です。
 なお、後者の記憶が運動メカニスムとか、運動的と呼ばれているのは、例えばどうしても思い出せない歌の歌詞が、メロディーに合わせて口ずさむとすんなりと出てくるように、この記憶が一種の習慣のように身体の内部に作りだされることによります。

 フランス語講読Bのクラスも、引き続きベルクソンの「形而上学叙説」を読んでいます。現在は終盤に差し掛かり、年明け頃には読了できるのではないかと思っています。次のテクストはまだ決まってはいませんが、文学作品を読んでみたいという声があがっています。新規の受講生も随時募集していますので、興味がおありの方はどうぞご気軽にお問い合わせ下さい。
 さて、前号の山びこ通信に、ベルクソンの形而上学の特権的対象は「持続」であると書きました。それでは持続とは何でしょうか。それは端的に言ってしまえば「動き」そのものであると言うことができます。この宇宙に存在するすべてのものは変化しており、不変なものはなにもありません。私たちは刻一刻と年齢を重ねていきますし、一見変わらないように見える物や自然さえも、何十年、あるいは何億年という単位で捉えるならば必ず変化しています。このようにあらゆる実在は変化の途上にあり、ベルクソンはこの変化を「傾向tendance」という言葉で呼んでいます。この傾向を捉えること、これが国家博士論文でもある『意識に直接与えられたものについての試論〔時間と自由〕』以来のベルクソンの主たる関心事でありました。
 しかし前号でも書いたとおり、言葉や概念はこの傾向を固定化する性質を持っています。目の前にある物体を「机」と呼べば、それはあたかも一切変化しない机であるかのようであり、ある山を「富士山」と名付ければ、そこには永遠不変の富士山があるかのように見えるからです。それゆえに、ベルクソンの哲学は言葉や概念が取り逃がしてしまう実在を文章によって捉えようとする、一種逆説的な試みであることになります。実際ベルクソンの文章には比喩が多く用いられているのですが、こうした比喩は概念によって捉えられないものを捉えるために、方法的に用いられていると考えるべきでしょう。ベルクソンにとって比喩は単なる文章表現にとどまらず、実在を捉える手助けをしてくれる手段でもあるのです。
 いま読んでいる「形而上学叙説」は講演を元にした論文であり、ベルクソン哲学のマニフェストとでも言うべき重要なものですが、それゆえにまた、具体的な問題には踏み込んでいかないというどこかもどかしい思いを感じるのも事実です。そのような方には、「形而上学叙説」から数年の後に出版された大著、『創造的進化』第一章の冒頭部分や、「形而上学叙説」と同じく『思考と動き』に収録されている他の論文を読むことをおすすめします。ひとつの論文をしっかり読んだ後なら、理解の度も格段に上がることと思います。