『西洋の児童文学を読む』クラス便り(2017年11月)

「山びこ通信」2017年度秋学期号より下記の記事を転載致します。

『西洋の児童文学を読む』

担当 福西 亮馬

 トンケ・ドラフト『王への手紙』(西村由美訳、岩波少年文庫)を読んでいます(全8章)。まもなく第3章を読み終え、全体の4分の1に差しかかります。
「どこから来た?」「遠くから。」
これは主人公ティウリと、瀕死の騎士エトヴィネムとの合言葉です。
第1章は、ティウリがエトヴィネムに手紙を託されるまで。続いて第2章は、手紙の隠滅をはかる勢力(赤い騎兵たち)に命を狙われながら森を抜けるまで。そして第3章は、別勢力(騎士リストリディンたち)につかまって彼らと和解するまで、という内容でした。
ここまでに、ティウリは4人の人物(マヌケ、ヒロニムス、ラフォックス、ラヴィニア)から「どこから来た? そしてどこへ行く?」と質問されます。それが疑われてであろうと信用されてであろうと、ティウリは慎重に答え、手紙を隠し通します。
「そなたには、秘密があるな?」
「はい、リストリディン騎士。」ティウリが言った。
「それが何かは、たずねまい。」
この短い会話に凝縮された「何か」が、物語の舞台となる国々と作品全体を支えています。それは一体何でしょうか?
ティウリは、ときに逃亡を選択し、臆病者と呼ばれます。そんなとき、心はもう騎士なので、彼は他人からつけられた偽りの評価を正したいという欲求に駆られます。けれども、「わたしはそなたを信頼する。」と言ってくれた騎士との約束を思い出して、自らを抑えます。そんな彼のために最後には味方が現れます。何でしょうか? それは先の問いの答と同じものです。
もうお分かりだと思います。それは、騎士の言葉にもあった、「信頼」です。そしてそれこそが、彼の困難の原因ともなったものでした。信じるに値する人物が国に確かにいる、それにティウリもなろうとしている──このことは、読者の胸を熱くさせます。(なぜでしょうか? それは読書が能動的な活動だからです!)
「どこへ行く?」という問いに、ティウリは隠者メナウレスの名前を出します。すると物をよく知る大人たち(ヒロニムス、ラフォックス)からは、「メナウレスさまのところに寄っていくのなら、それは、正しいことであろう。」と異口同音に励まされます。その響きは、ティウリが「そなたは騎士になるであろう。」と言われてエトヴィネムから手紙を託されたことを思い起こさせます。
ティウリはしばしば、それまでの出来事が遠い昔に思われ、この先もやっていけるのだろうかと、気弱になります。その都度、何かを目にしたり、記憶を手繰り寄せたりして、自分を励まします。たとえば星のようにきらっとした川面の光。それは首にぶら下げていた指輪──手紙とともに託された騎士の形見──の影でした。これは山下太郎先生に代講していただいた時でしたが、Aoniさんが、「前の箇所でも、夜空に一つだけ光る星を見てティウリが励まされたシーンがあった」と、そのページを指摘してくれました。それで、星はこの物語における希望の象徴なのだろうと、クラスでも確認できたということでした。
このような作品の濃密さを、一度読んでしまった後も、時間をかけて味わうことは善いことです。授業では一節ずつ進んでいます。音読を欠かさずして、要約と語彙、共感したことや気付いたことで意見交換しています。そのノートは、あとで何物にもかえがたい精神的な財産になるでしょう。
Kai君とEisuke君が、冗談で「このままのペースだと、ぼくら中学生になってしまうな!」と言っていました。読書会という年単位の形式が初めてだからでしょう。私はむしろ、そのような体験こそ、今から持たせてあげたいと思います。
さて、これからも読む旅は続きます。生徒たちが読む限り、ティウリもまた旅を続けられます。彼が王に届けようとしている手紙には一体何が書かれているのでしょうか。生徒たちはすでに知っています。私もそれを山びこ通信で報告するときを心待ちにしています。
本を読むことを責任ある喜びだと言いかえられる仲間を、今もお待ちしています。