『かず』3〜4年/4〜5年クラス便り(2017年6月)

「山びこ通信」2017年度春学期号より下記の記事を転載致します。

『かず』3〜4年/4〜5年

担当 福西 亮馬

 これは私がNHKのとある番組で感銘を受けたことです。将棋の森内俊之十八世名人資格者が、「考えることが苦でないこと」を棋士になる若い人たちへのメッセージとしていました。私は番組の内容から次のように受け取りました。「将棋は勝負の世界であるけれども、一方ではそれ自体の奥の深さを喜びとしなければ長く居続けられない世界でもある」と。
その時、知人との会話がふと蘇りました。彼は流体力学・計測工学の研究者なのですが、学生の面倒を見ることで嘆いていました。「大学に来て『普遍性』に興味を持たないことはありえるか? たとえば問題にしている事柄を『数式』で表せたらほっとできるだろうに」と。学生が行き当たりばったりから抜け出すことに興味を覚えないのはなぜだろうかと。私もそれに同意の苦笑を洩らしたのでした。
『生きること考えること』(田中美知太郎、彌生書房)の中で、哲学者である著者はこう書いています。「考えることからの解放ではなくて、考えることそのことが解放され、自由になるところに、考えることのよろこびがある」と。おそらく知人の目にあまったその学生は、「問題から早く解放される」ために頭を使おうとしていたのでしょう。
ところで算数では、答が合っていても数式が間違っていると減点されるという話をよく聞きます。これは理不尽でも何でもなく先々に対する配慮です。およそ普遍性のために考えるのでなければ数学をしているとは言えないからです。「これはどんな時にでも成り立つのだろうか? もしそうでなければどういう時に成り立つのだろうか?」という興味があってこそ、大学で、またその先で、ひいては行く先々のどこででもますます花咲くのでしょう。よく「実社会では四則演算さえできればよい」という意見がたまに理系の人の口から飛び出すことがありますが、それはあたかも、古典的名作を読んで育ったはずの図書館司書が、その作品を棚からおろして流行の漫画を並べ直すような、足元を忘れた恩知らずな配慮だと言えるでしょう。
前置きが長くなりましたが、クラスでは、考えることの楽しさをパズルで、1問にかけるねばり強さを間違い探しや迷路で、また積み残しのチェックをプリント学習でしています。最近は、3~4年クラスではかけ算とマッチ棒パズルを、4~5年クラスではわり算と論理パズルを中心に扱っています。
マッチ棒パズルはひらめきの要素が強いように思われます。けれどもこのひらめき自体を分解してみると、可能性を「よく検討する」ことに還元できます。1つの問題に使われるマッチはだいたい20本程度です。そのうち動かす候補のマッチは5~10本程度、またその移動先の候補も5~10か所程度です。とすると多くて10×10=100通りについて考えることになります。たくさんの選択肢を見落としなく調べ上げることについてはコンピューターが得意です。一方、最初からありえないパターンをうまく捨てることについては人間が得意です。このちょうど真ん中を行くのが、ひらめきです。そのような「真ん中」がなぜ難しいのかというと、誰にでも思考のくせというものがあって、うまくいかないと分かっていながらつい同じパターンを何度もたどってしまうからです。そしてよく検討する前に焦れてしまうからです。そこで、「なぜうまくいかないのだろう」から「どうやったらうまくいくのだろう」への転回が必要です。そこで自分自身を健全に疑ってみます。しかしそれにはある程度の元手がいります。将棋だと、この元手とは持ち駒、特に歩を有効に使った時の勝ちぐせにたとえられます。「一歩持ったら、歩の切れている筋を検討する」ことです。たとえば、相手の金の頭に打ち込んでみたり(ダンスの歩)、二段目に控えている相手の飛車の真横に打ち込んでみたり(手裏剣の歩)。そういった検討なしに、煮詰まった局面になると、つい大駒を動かしてしまうとしたら、それが一つの「思考のくせ」です。もしそれで勝てたとしても過去の成功体験にしがみつくことでしかないでしょう。そうではなしに、普遍的なプロセスに自信を持てるようになる取り組みとして、パズルを解くことを奨めています。
論理パズルでは、証明の文章を生徒たちに書いてもらっています。「もし~ならば」「だから~なので」「矛盾する(しない)」という筋道には、それを書いた者が大人であろうと子供であろうと関係ありません。論理が相手にするのは常に普遍性だからです。

問題
アリスとうさぎがじゃんけんを1回して、どちらかがパーで勝ちました。
アリス「私はパーを出したわ」 うさぎ「ぼくはグーかパーを出したよ」
勝った方は正しいことを言い、負けた方はうそをつきます。アリスとうさぎ、どちらが勝ったでしょう?

Sちゃん(4年生)の解答
もしも、アリスがかったなら、ぜったい「パー」を出している。でもうさぎが負けたら、うさぎはうそをつくから、「パーかグー」のうそはチョキだから、うさぎが勝つ。矛盾。アリスはかてない。
もしも、うさぎがかったら、うさぎはパーを出さなければいけない。だからアリスはグーを出すでもうそをつかないといけないから「パーを出す」はうそでOKになる。

A.うさぎ

このような解答を一生懸命に書き残してくれています。考えること、またそれに伴う作業が苦でなければ、いずれ答への筋道が見つかります。もちろん実社会や数学の世界でそんなにうまく行くことはしょっちゅうありませんが、少なくとも小学生の間は、算数やパズルでは解の存在が保証されています。そして最初に見えていなかったものが見えた時、その瞬間は視野の広がりとして経験されます。山の学校で大事に見聞きしておきたいのは、その瞬間の目の輝き方であり、声の弾み方です。それが普遍的な自信としてこれまでの蓄積に付け加えられ、反対に特殊な思い込みの数を減らしてくれることでしょう。
考えることは面倒くさいことです。その「だから」という分かれ道には、このような標識が立っているでしょう。「A:もうそれをしなくてもいいために」、「B:より思い込みから解放されるために」と。その分かれ道に立つ生徒たちをクラスでは応援しています。