『フランス語講読』A・Bクラス便り(2017年6月)

「山びこ通信」2017年度春学期号より下記の記事を転載致します。

『フランス語講読』A・B

担当 担当 渡辺 洋平

 フランス語講読Aのクラスでは、前学期から引き続き、アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』を読んでいます。現在は、一回の授業で4頁前後というペースで進んでおり、第一章の終盤に差し掛かってきました。
 前号で『物質と記憶』第一章の大まかな枠組みを素描しましたが、第一章のテーマは「知覚」です。とはいえ、ここで考察されるのは日常的な知覚ではありません。私たちは、通常、過去の記憶を元にしながら知覚という行為を行っています。目の前にある物体が机であったり、本であったりということが分かるのは、机や本に関する過去の記憶があるからです。しかしベルクソンは、知覚の本性を見定めるために、一切の記憶を含まない知覚、すなわち「純粋知覚」というものを想定します。この純粋知覚には過去の記憶がまったく入りこんでいないために、個人の人格に結びつくような要素がありません。前号で、自分の身体に関係づけられたイメージ=物質が「知覚」であると書きましたが、ここで言われる知覚=イメージ=物質とは、実はこの純粋知覚のことなのです。知覚とイメージと物質という三項がイコールによって結ばれるのは、あくまでもこの「純粋な」状態においてです。
 ところで、純粋知覚には、過去の記憶の他にもうひとつ捨象されているものがあります。それが身体の厚みです。純粋知覚の理論において、私たちの知覚は、外界からの刺激に対して身体が反応し、影響を与えうる範囲として規定されますが、私たちの身体は拡がりのない数学的点のようなものではありません。そのため、知覚の対象も、そのあるものは身体の「外」にあり、またあるものは身体の「内」にあるということになります。例えば、視覚や聴覚の対象は身体の「外」に、痛みのような感覚や感情は、身体の「内」にあると言うことができます。このように、知覚と感情は、その対象となるイメージが身体の内にあるのか外にあるのかという明確な違いによって区別されることになるのです。身体とはまさに、各自の内と外の境界線であり、ベルクソンは痛みのような主観的な感覚も精神的で非物質的なものとみなすのではなく、あくまでも身体という拡がりを持った物質との関連で捉えているということになるでしょう。

 フランス語講読Bのクラスも前学期から引き続きベルクソンの「形而上学入門」を読んでいます。前回読んだ箇所から引き続き、分析と直観、記号と事物、要素と部分といった対立する二項を挙げながら科学と形而上学とを区別しつつ、形而上学とその特権的な対象である「持続」の輪郭を少しずつ描き出していきます。
 「形而上学入門」においてベルクソンは、形而上学とは真の経験論であると言います。それは、対象を捉えるために、すでにできあがっている既成の概念を用いるのではなく、その対象にしかあてはまらないような概念を生み出すような経験論です。もちろん概念は、それが概念である限りにおいて、ある程度の一般性を持たざるをえません。概念とはその定義からして一般性を持つものだからです。そのためベルクソンは、このような概念を、「いまだ概念であるとほとんど言うことができないような概念」だと言います。このような概念を生み出すことで、形而上学は対象をその固有性のままに捉えようとするのであり、その特権的な例が私たち自身の自我であり、ベルクソンが言う「持続」なのです。
 このような形而上学のやり方は、人間の通常の思考の歩みとは方向性を逆にしています。人間の通常の思考は、例えば、「赤いペン」「きれいな海」「恐ろしい化け物」のように、すでにある概念を用いて対象を捉えようとします。考えることとは、通常、できあいの概念を用いて対象を認識することなのです。したがって、真の経験論としての形而上学は、人間の自然な思考を転倒させ、日常生活とは異なる方向へと思考を導いていかねばなりません。ここに他の科学とは異なる形而上学の特殊性があるのであり、形而上学は決して他の科学によって取って代わられることはないのです。ベルクソン自身の哲学とは、このような形而上学の実践だったと言うことができます。それはまさに「知性の通常のはたらきを転倒させる」ものなのです。
 ベルクソンの考える形而上学とその特権的対象としての持続をより明確に捉えるためにも、さらに先へと読み進めていきたいと思います。