岸本です。
今日は、前回やり残していたアジアにおける帝国主義の支配を見た後、ヨーロッパに舞台を戻して、第一次世界大戦の経緯を確認していきました。
前回は、アフリカと中国における帝国主義の進出を議論してきました。
中国以外のアジア、つまりインドや東南アジア、西アジアが今回の議論の的でした。
各地では、植民地支配に対する抵抗運動が起きていました。
英領インドの国民議会や、蘭領インドネシアのサレカット=イスラーム、仏領ベトナムの維新会がその中心でした。
しかし、そうした運動は宗主国の弾圧や懐柔政策によって、次第に下火となっていくのです。
生徒さんとは、民族運動を指揮したのが、エリート層であることが議論となりました。
議論は、民族的自覚を得るために教養が大きな役割を果たしているという方向に向かっていきました。
民族が生来的なものではなく、周囲との関係で形成されると、生徒さんは認識したようです。
その後、復習も兼ねて当時のヨーロッパの状況をビスマルク体制から確認していきました。
英独の覇権争いが、様々な同盟や協商関係を経て、英仏露 対 独墺(伊)の構図が出来上がるのです。
この列強の二極化は、ひとたび列強の間で戦端が開かれれば、両者の同盟関係によって、植民地を含めた世界全体を戦争に巻き込まれることを意味しました。
その火元となるバルカン半島の情勢を、つづいて議論していきました。
かつてはオーストリア帝国、そしてオスマン帝国の支配を受けたバルカン半島は、複雑な民族構成を形成していました。
このようなバルカン半島の複雑な民族構成は、ドイツ・オーストリアの掲げるパン=ゲルマン主義と、ロシアと独立したバルカン諸国の掲げるパン=スラヴ主義の対立を複雑に激化させることになりました。
また、そうした民族対立が列強同士の関係を悪化させます。
この負のスパイラルが、バルカン半島を「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばせた所以でした。
生徒さんは、民族を分ける基準がどのようなものか疑問を持ったようです。
議論では、最初に言語を挙げてくれました。
確かに言語は重要な基準である場合が多いですが、それ以外にも、文化や歴史、特有のしぐさなどもあります。
様々な基準については、また詳しく議論できればと思います。
さて、サライェヴォでおきた墺皇太子夫妻暗殺事件を契機に、とうとう第一次世界大戦が起こりました。
今回はその経緯と、戦争によって生じだ秘密外交や総力戦体制の内容を確認していきました。
特に秘密外交で列強によって約束された自治や独立が、結果として矛盾や嘘となったことは、生徒さんの関心をひきました。
来週は、その影響や意義について議論した後、大戦中に起きたロシア革命の様子をみてきたいと思います。
普通は歴史のクラスというと知識の一方通行的な伝達をイメージしますが、このクラスは違いますね。来週もよろしくお願い致します。