西洋古典を読む(2017/5/31)(その2)

福西です。その1からの続きです。

この日読んだ『人生の短さについて』7章3節には、

「生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるであろうが、生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである」(茂手木訳)

とありました。一日を生きることは一日分の死の練習。それを毎日クリアしていけば、全体の最後である死は全体の完成、ゴールとしての瞬間であろう、というストア派の思想が伺えます。

たとえば、キケローは『老年について』5章13節で「プラトーンは書きながら死んだ」と記していますが、「これだ」という一冊を書き上げたならば、あとはピリオドが何冊目の上におとずれようとも悔いがない、そのような哲人の生き方を連想します。

前稿で書いたように、今日のことを完成できる時間は今日であって明日ではないのだ、ということの自覚と実践は、ソクラテスが言ったとされる「哲学とは死の練習である」の一日バージョンです。

 

ところで、セネカは時間の性質について語る時、「自分のために」という言葉を何度も使います。一方、セネカの先輩であるキケローは、『国家について』の最後(26章29節)で、「この魂の力をおまえは最善の仕事において発揮するように」(『キケロー選集8』岡道男訳、岩波書店)と書き残しています。

キケローにとっての「最善の仕事」とは「祖国の安全のための配慮」でした。「みんなのために」というわけです。セネカは「自分のために」と書いています。ここで二人は同じものを見ているのか、違うものを見ているのかという疑問が生じます。

私が思うに、おそらく二人とも「全体に部分を一致させる」という視点を持っているのでしょう。その視点によって、他人に強いられたり、快楽の奴隷となって自分を動かされることなく、自分で自分を動かすことができる(セネカはそれを「自分のために」と表現している)、ということなのでしょう。

現代の私たちにとって、人生全体の目標または最善の仕事というものが何であれば、落ち着きを得られるでしょうか。それについて、クラスではこのあとも互いに個々の考えを深める時間を持つことができればと思います。

 

まとめ】 『人生の短さについて』7章に書かれていたこと

「毎日毎日を最後の一日と決める」(※)

→そのことで、人生全体の目標を思い出す(その視野を得る)

→思い出したならば、それと一致する行動を実践し、その日できることを完成させる

→蓄積し、全体を完成させる(人生全体の目標にゴールする)

→これが、長い人生だ

※明日がないというのは、今日を完成させるための時間が明日にはないという意味で、明日死んでも構わないというわけではない。

そして以上が、『人生の短さについて』冒頭(1.3)「人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている」(茂手木訳)の「有効に費やされるならば」の内容になっていることを見ました。

徒然草188段にある「一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るるをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず」とは、セネカ的には「自分のために、すなわち人生全体の目標と一致させるような時間の使い方をせよ」ということなのだろうかと思います。