西洋古典を読む(2017/5/31)(その1)

福西です。この日は強い雨が降っていました。セネカ『人生の短さについて』(茂手木元蔵訳、岩波文庫)の7章を読みました。

『徒然草』の第188段に、次のような言葉があります。

一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るるをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず。

この段で紹介される逸話の一つに、「ますほのすすき」というのがあります。登蓮法師という人物が話の席で「ススキの種類のことなら、渡辺というところに住む聖が詳しいですよ」と聞き、中座してその聖を尋ねに行こうとします。一座の人たちは「雨がやんでからにすれば?」と引き留めます。そこで法師は言います。

「人の命は雨の晴れ間をも待つものかは」

つまり、

「人の命は雨がやむのを待ってくれない。私も聖もいつ死ぬか分からない。だから今なのだ」

と。一事をなすためには、それぐらいの決心で挑み、他のあれこれを捨てることができて、やっとなのだということです。

その下りが、この日読んだセネカの箇所と協奏するように思いました。

毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。
──『人生の短さについて』7章9節(セネカ、茂手木元蔵訳、岩波文庫)

原文とその直訳は以下の通りです。

7.9

qui omnes dies tamquam ultimum ordinat, nec optat crastinum nec timet.

すべての(omnes)一日を(dies)あたかも(tanquam)最後のものとして(ultimum)配置する(ordinat)ような人は(qui)、明日のことを(crastinum)期待しない(nec optat)し、恐れない(nec timet)。

Aさんはこれに疑問を投げかけました。それは、明日死んでもよいような生き方が今日できるということだろうか。一日の視野でそんなことができるのだろうか。むしろ刹那的にならないだろうかと。

そこでまずは私なりに理屈をこねてみました。

「一日の私」の寿命は「一日」。一日はその日のうちにしかなく、その日の終わりが「一日の私」の最後となる。すると文字通り「一日一日死にながら明日も生きる」ことには矛盾はない、と……。

でもまだよく分からないので、調べてみました。すると、『セネカ哲学全集 5 倫理書簡集1』(高橋宏幸訳、岩波書店)の月報に、次のような文章を見つけました。

『倫理書簡集』第一二においてセネカはルキリウスに、一日に人生全体が過ぎ去ってしまうようにして、ある一日を生きることを勧めている。今生きつつある瞬間が、最後のものであるかのように毎夕思い描くことによって、その一瞬を不動化するのである。死ぬ瞬間にある者として自己を思い描くとき、ひとは生全体にたいする回顧の視線を手に入れることができる。それは現在という瞬間を切り取ると同時に、それを俯瞰するような二重の視線を可能にしてくれる。だから「死の練習」は未来に対するたんなる思考訓練ではなく、今まさに死につつある者としての現在の自分自身への垂直な視線の訓練なのだ。
──『正しく自己に帰らなければならない──フーコーとセネカ──』(廣瀬浩司、『セネカ哲学全集』月報1 第5巻、2005年) ※ゴシックは引用者

つまり、セネカが勧めるのは、「おれたちに明日はない、一日分の目標で生きよう」ということではなくて、むしろその正反対だということです。

「人生全体の目標を思い出せ。それと一致するように一日を完成させよ。今日を、明日に投資して利息と一緒に回収できるという期待はむなしいだけだ。明日には今日はない。なぜなら明日には明日の今日があるのだから

と。つまり、「毎日毎日を最後の一日と決める」こととは、スティーブ・ジョブスではないですが、あたかも朝起きて鏡の前で、めいめいがその「人生全体の目標」(Aさんは「原点」という言葉を使っていました)を思い出すための方便、方法だと言えそうです。

明日死んでもいいように今日生きる、というのにはいささか抵抗を感じます。けれども、「人間はすぐ忘れる生き物だ。だから自分が何をしたかったか(初心)を毎日顔を洗うたびに思い出す必要がある」というのであれば、まだしも納得です。

ただし、思い出すにしても簡単にはいかず、何かコツがいります。そこで使えるのが「死ぬ」というテンションです。死を意識しないですごす均質な一日と、今日しか生きられない一日とでは、石ころと宝石のように、一日の特別さが違います。後者の方が「何をすべきか」が見えてきそうです。

セネカはまた次のように書いています。

『倫理書簡集』71章3節

「私たちが誤りを犯すのは、みな人生の部分ばかり思案して、誰も全体を思案しないからだ。矢を放とうと欲する者は、何を狙うかを知らねばならない。それから狙いを定めて矢を調整する。私たちの計画に狂いが生じるのは、狙い定める目当てがないからだ。どの港を目指すか知らない者には、どんな風も順風にはならない。

──『セネカ哲学全集5 倫理書簡集1』高橋宏幸訳、岩波書店) ※ゴシックは引用者

この目的港のない船路と同様に、「人生全体の目標」のない時間は、人生を生きたのではなくて、ただ存在した時間でしかありません。その意味にとれる箇所が、『人生の短さについて』の7節にも出てきます。

「四方八方から荒れ狂う風向きの変化によって、同じ海域をぐるぐる引き回されていたのであれば、それをもって長い航海をしたとは考えられないであろう。この人は長く航海したのではなく、長く翻弄されたのである」(茂手木訳)

ここで、「毎日毎日を最後の一日と決める」(茂手木訳)に戻ります。

訳語の「決める」にあたる原文のordinatは、ordo(順序・秩序・オーダー)という単語からなる動詞です。(順番通りに)整理する、(全体とのバランスを)調整する、アレンジするという意味です。つまり、全体から見て位置づけを与える、ということです。

よって例のフレーズは、「人生全体の目標から見て、一日一日に最適な位置づけを与える」という意味になるでしょう。つまりそのような人生が、『人生の短さについて』冒頭(1章3節)の「十分長い人生」ということなのだと。

でも、ここではたと立ち止まります。

「人生全体の目標」とは何でしょうか?

『倫理書簡集』71章の文脈では、ストア派の「最高善」ということになりますが、それが何かは、私にも分かりません。

もしそれが分かれば、善く生きられることになるのでしょうが……。

 

その2へ続きます)