山下です。
恒例のラテン語の夕べを8月24日(金)に開きます。
ラテン語を学ぶ楽しさをお話ししたいと思います。予備知識は何もいりません。
時間は夜の8時からです。場所は北白川幼稚園にて。
参加希望者はメールでお申し込み下さい。
メールの送信先は、taro@kitashirakawa.jp でお願いします。
山の学校は小学生から大人を対象とした新しい学びの場です。子どもは大人のように真剣に、大人は子どものように童心に戻って学びの時を過ごします。
山下です。
恒例のラテン語の夕べを8月24日(金)に開きます。
ラテン語を学ぶ楽しさをお話ししたいと思います。予備知識は何もいりません。
時間は夜の8時からです。場所は北白川幼稚園にて。
参加希望者はメールでお申し込み下さい。
メールの送信先は、taro@kitashirakawa.jp でお願いします。
山下です。
参加者からちょうだいしたご質問をご紹介します。
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山下太郎さま
先日は「ラテン語の夕べ」に招待いただきありがとうございました。
今回で2度目の参加となりますのに、夜道に迷ってしまって遅れてしまい申し訳ありません。
お話にもありましたように、一日一日のなかに少しでもラテン語学習の時間を割くことですこしずつ豊かな世界が開けていくものと期待は膨らませてはいるのですが、生来の無精をなんとかvincoせねばと思うばかりです。
ところで、ウェルギリウスのお話のなかで、ふと浮かび上がった疑問が二つほど私にはありました。
一つは、「laboro omnia vincet」にある二重の解釈について、同時代のひとびとはこの一文の両義性をどのくらい感じていたのだろうか?ということです。後の時代になって「laboro」と「vincere」の意味が通常の「労働」や「勝利」の意味へとより収斂していくことで見えにくくなっている一方の解釈が、当時ではまだ判じ物の答えのようなものとしてより意識できていたのでは。
もう一つは、「文明」ということばから連想される西欧圏と日本とでの意味の違いです。教科書的には「文明」の訳は「civilization」となりますが、一方で、人間のつくる技術の進歩については「culture/cultivation」が原義とする「農耕」が元型イメージとなっているような印象を、一連の詩人たちのことばに感じました。日本語の「文明」では、「文明開化」のことばにあるように、どちらかというと「啓蒙 enlightenment」のニュアンスが前面にでているような気がします(「明」= light )。
いずれも感想の域をでない疑問ではありますが、ことばについて刺激をうけたお話を拝聴することができ、とても楽しい一夜でありました。またの機会にもお伺いさせていただければ、と存じます。