福西です。3回目です。 『人生の短さについて』(セネカ、茂手木元蔵訳、岩波文庫)を読んでいます。 この日は3章の4節まで読みました。
セネカは2節で、「どれだけの(時間)を」(quantum)という表現を7回連続用いて、Aが、Bが、…Gが持ち去ったのか、数え上げてみよとまくしたてます。そして、「加えよ」(adice)病気を、「加えよ」(adice)未使用の時間を、と。
3節に入ってもまだその調子は続きます。「いつ」(quando)を4回連続用いて、Pが、Qが、Rが、Sが、あなたにあったのかと。
すなわち、
P 計画の(consilii)確かさが(certus )、
Q あなたに属する(tui)(時間の)使用が(usus)、
R 自分の姿勢の(statu suo)中に(in)顔が(vultus)、
S びくともしない(intrepidus)精神が(animus)、
あったのは、いつのことか、と。
要するに、「自分で自分の人生を決められた瞬間はあったのか? 胸を張って後悔しない時間はあったのか?」という問いです。
ここで、生徒のAさんとは、鏡を見るスティーブ・ジョブズの逸話を思い出しました。
「びくともしない(脅かされない)精神」(intrepidus animus)という言葉が注意を引きました。これは「四六時中不安にかき乱され、落ち着きのない心」とは反対のものです。先週、倫理の話で一緒に出てきたストア派やエピクロス派、いわく賢者の価値観を思い出しました。
trepido(トレピドー)という動詞があります。「(心を)かき乱す、混乱させる」という意味です。trepidus(トレピドゥス)は、それを受け身にして作る形容詞で、「心をかき乱された(状態)」のことです。そして、intrepidus(イントレピドゥス)というのは、そのtrepidusではない(inが否定辞)、ということです。だから、「不動の」という意味になります。風に意思なく揺れる葉っぱのようにブルブルしない、幹のようにどっしり構える、ということです。
ところで、この「誰かひとりをつかまえて、こう言ってみたい」(3.2)から続くセネカののべつ幕なしの論調に、私はある児童書を連想し、Aさんにも紹介しました。それについて、みなさんはどう思われるでしょうか?
まず、テキスト(茂手木訳)からその個所を引用します。
そこで、あなたの生涯を呼び戻して総決算をしてみませんか。勘定してください、あなたの生涯のどれだけの時間を債権者が持ち去ったか、またどれだけを愛人が、どれだけを主君が、どれだけを子分が。またどれだけを夫婦喧嘩で、どれだけを奴隷の処罰で、どれだけを公用で都じゅうを走り廻って。これらに病気をも加えて下さい、私たちが自らの手で招いた病気を。また使わぬままに投げ出した時間をも加えて下さい。するとお気付きになるでしょうが、あなたが持つ年月は、あなたが数える年月よりも、もっと少ないでしょう。(3.2)
そして以下が、エンデ『モモ』より。灰色の紳士がフージー氏に時間貯蓄を勧める一節です。
睡眠 441,504,000秒
仕事 441,504,000〃
食事 110,376,000〃
母 55,188,000〃
ボタンインコ 13,797,000〃
買物ほか 55,188,000〃
友人、合唱ほか165,564,000〃
秘密 27,594,000〃
窓 13,797,000〃
合計 1,324,512,000秒
「この合計が、」と灰色の紳士は、えんぴつで鏡をもうれつないきおいでカタカタとたたきました。(中略)彼はその数字の下に、さっきのむだにした時間の合計を書きました。
1,324,512,000秒
− 1,324,512,000〃
0 000 000 000秒
彼はえんぴつをしまって、この0の長い行列がフージー氏に効果をおよぼすのを待つように、しばらく間をおきました。
─『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)
どうです? このアナロジー。実に面白いとは思いませんか?(もちろんこれは余興です)。
次回は、3章5節と4章を読みます。
Time is money.といいますが、ラテン語だとHora vita.です。時間もお金も節約は大事ですが、「むだ」を省いた残りを何に使うかが肝心で、セネカと灰色の紳士とではその管理の主体が正反対である点で大きな相違があるわけですね。