西洋古典を読む(2017/4/26)

福西です。3回目です。 『人生の短さについて』(セネカ、茂手木元蔵訳、岩波文庫)を読んでいます。 この日は3章の4節まで読みました。

セネカは2節で、「どれだけの(時間)を」(quantum)という表現を7回連続用いて、Aが、Bが、…Gが持ち去ったのか、数え上げてみよとまくしたてます。そして、「加えよ」(adice)病気を、「加えよ」(adice)未使用の時間を、と。

3節に入ってもまだその調子は続きます。「いつ」(quando)を4回連続用いて、Pが、Qが、Rが、Sが、あなたにあったのかと。

すなわち、

P 計画の(consilii)確かさが(certus )、

Q あなたに属する(tui)(時間の)使用が(usus)、

R 自分の姿勢の(statu suo)中に(in)顔が(vultus)、

S びくともしない(intrepidus)精神が(animus)、

あったのは、いつのことか、と。

要するに、「自分で自分の人生を決められた瞬間はあったのか? 胸を張って後悔しない時間はあったのか?」という問いです。

ここで、生徒のAさんとは、鏡を見るスティーブ・ジョブズの逸話を思い出しました。

「びくともしない(脅かされない)精神」(intrepidus animus)という言葉が注意を引きました。これは「四六時中不安にかき乱され、落ち着きのない心」とは反対のものです。先週、倫理の話で一緒に出てきたストア派やエピクロス派、いわく賢者の価値観を思い出しました。

trepido(トレピドー)という動詞があります。「(心を)かき乱す、混乱させる」という意味です。trepidus(トレピドゥス)は、それを受け身にして作る形容詞で、「心をかき乱された(状態)」のことです。そして、intrepidus(イントレピドゥス)というのは、そのtrepidusではない(inが否定辞)、ということです。だから、「不動の」という意味になります。風に意思なく揺れる葉っぱのようにブルブルしない、幹のようにどっしり構える、ということです。

ところで、この「誰かひとりをつかまえて、こう言ってみたい」(3.2)から続くセネカののべつ幕なしの論調に、私はある児童書を連想し、Aさんにも紹介しました。それについて、みなさんはどう思われるでしょうか?

まず、テキスト(茂手木訳)からその個所を引用します。

そこで、あなたの生涯を呼び戻して総決算をしてみませんか。勘定してください、あなたの生涯のどれだけの時間を債権者が持ち去ったか、またどれだけを愛人が、どれだけを主君が、どれだけを子分が。またどれだけを夫婦喧嘩で、どれだけを奴隷の処罰で、どれだけを公用で都じゅうを走り廻って。これらに病気をも加えて下さい、私たちが自らの手で招いた病気を。また使わぬままに投げ出した時間をも加えて下さい。するとお気付きになるでしょうが、あなたが持つ年月は、あなたが数える年月よりも、もっと少ないでしょう。(3.2)

そして以下が、エンデ『モモ』より。灰色の紳士がフージー氏に時間貯蓄を勧める一節です。

睡眠     441,504,000秒

仕事     441,504,000〃

食事     110,376,000〃

母        55,188,000〃

ボタンインコ   13,797,000〃

買物ほか     55,188,000〃

友人、合唱ほか165,564,000〃

秘密       27,594,000〃

窓        13,797,000〃

合計    1,324,512,000秒

「この合計が、」と灰色の紳士は、えんぴつで鏡をもうれつないきおいでカタカタとたたきました。(中略)彼はその数字の下に、さっきのむだにした時間の合計を書きました。

      1,324,512,000秒

     − 1,324,512,000〃

      0 000 000 000秒

彼はえんぴつをしまって、この0の長い行列がフージー氏に効果をおよぼすのを待つように、しばらく間をおきました。

─『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)

どうです? このアナロジー。実に面白いとは思いませんか?(もちろんこれは余興です)。

 

次回は、3章5節と4章を読みます。