西洋の児童文学を読む(2017/4/27)(その1)

福西です。

トンケ・ドラフト『王への手紙(上)』(西村由美訳、岩波文庫)を読んでいます。

今回は第1章2「見知らぬ人からの依頼」を読みました。

要約を三人がしてきてくれたので、順番に発表してもらいました。三人寄れば文殊の知恵。どれも味わい深かったです。何よりも発表の時の聞く人たちの雰囲気が良かったです。それがすごく大事だなと思いました。

音読も力と心が入っています。先に読んでしまっている人も、臨場感を出して読んでいました。これはあまり良いたとえではなのですが、原作本を読んで、それのアニメ化や実写化で、1週間に1話ずつ、二度楽しめているような感触でしょうか。(良いたとえがなくてすみません)

 

この節でのティウリの行動には見上げたものがあります。たとえば、この物語のキーワードになる「手紙」を、「このように、安全にしまいました」(p32)と、相手の目の前で胸にしまって見せています。それはひとえに自分ではなく、相手が安心するためです。任務の重さに緊張しながらも、相手の立場になることを忘れないでいる、このようなティウリの行為は立派です。「かっこいい」とはきっとこういう瞬間を指すのでしょう。

もしティウリがもじもじしながら、あるいはぶっきらぼうに手紙を受け取っていたなら、それを渡した老人も不安で眠れなかったことでしょう。

 

クラスで話が盛り上がった後、私からは、

「どこかほかへ行ってくれればよかったのに。」ティウリは、小声で怒った。(p27)

という表現を指摘しました。十六歳の少年がもし人助けとはいえ、自身の予定(将来)を狂わせる依頼を、純真に引き受けていれば、味気ない作品となっていたでしょう。けれども作者はここで若者らしい心情をティウリに吐露させています。だからこそより真実味があって面白いのだと思います。

老人は「まさしくりっぱな騎士になれる」と言いますが、なぜそんなふうに請け合えるのかと質問しました。するとAちゃんが「騎士になった後にする行為を今していることになるから」と解説してくれました。その意見で全員が「そうだ、その通りだ」となりました。

また、2節の冒頭、ティウリの「きっとそうだろう!」(p25)に対して、「希望的観測」という言葉を紹介しました。ティウリには助けの声が空耳だと思い込みたい事情があります。けれども以前も確認しましたが、騎士にとって「偏った状況判断」(知恵のないこと)は命取りです。

ところで、みんなだったら依頼を引き受けるかどうかという議論では、「その体験を積むことができるのだから、無駄にはならない」というポジティブな意見が聞かれました。

この稿ではまだまだ伝えきれませんが、今回はこのあたりにしておきます。

 

次回(5/11)は、3「宿への道中」を読みます。

ティウリが一瞬身の危険を覚えるシーンがあります。