今学期は、司馬光の『資治通鑑(しじつがん)』を読むことになりました。
今回、読んだのは、『資治通鑑』の最初、周王が新たに韓、魏、趙の三氏に諸侯(大名)としての地位を認めた、という記事ですが、その下に続く司馬光がなぜこの事件をこの書物の第一に置いたのか、その理由を語った長文の評論を途中まで読みました。
『資治通鑑』は、北宋の司馬光(1019-1086)が著した編年体の歴史書です。
司馬遷の『史記』以来、中国の正史は紀伝体で書かれており、その伝統は清朝まで引き継がれることになります。紀伝体は、その書物としての編成が本紀と列伝に大別されることからその名がつきました。本紀は皇帝中心の記録で、その治世に起こった大事件が時系列に沿って記されています(つまり、この部分は後述の編年体で書かれています)。また、列伝は個別の人物の記録で、ある人物がどのように立身出世し、あるいはその生涯になにを成し遂げたかということが書かれています。大きな事件が起きれば、それはまず本紀にやや簡潔に記されることになり、さらにそれに関わった人物、あるいは人物たちの列伝に、当人の立場を踏まえて記されることになります。これによって、一つの事件を多角的な視点から捉えることができ、読者に一定の客観性を提供することができます。しかしこれは、ひとつの事件が本紀と列伝との両方(あるいはそれ以上の個所)に記載されているということであり、その全体像を捉えるのには不向きです。
一方の編年体は、「某年某月某日」という「時」を明記して時系列に並べ、その下にそれぞれの事件の顛末をまとめていますので、基本的には複数の巻を行ったり来たりする必要がありません(ただし、数年にわたる出来事の一部始終を見るためには、どの始まりと終わりがどこそこと記されているわけではないため、まだ不便があるのですが)。この編年体の起こりは、実は紀伝体よりも早く、孔子の『春秋』に始まるとされています(実際にはもっと早いものもありましたが、現存しない、土中に埋まっているなどして省みられなかった期間が長いため、ここでは触れません)。もっとも、『春秋』は「時」を仔細に記してはいるものの、その下に附く「事」が充実するのは、『春秋左氏伝』を待ってのことです。この『春秋左氏伝』に記された250年ほどの歴史は、時が明記されたことによって、非常に信頼性と利用価値の高いものとなっています。
司馬光のころ、『史記』以来の正史は続々と作られ続けて、すべてを読破するのは容易ではありませんでした。ましてや、「乙夜の覧」ということばもあるように、多忙な政務に追われる皇帝にとって、読書の時間は限られています。そこで、司馬光は通読しやすい編年体に目をつけ、『通鑑』の編纂に取りかかったのです。完成した『通鑑』は、皇帝ばかりではなく、一般の読書人にもひろく受け入れられ、注釈、続編など、関連する様々な書物が作られました。
政治家としての司馬光は、従来の制度を改革しようとする王安石と対立する守旧派の旗頭として知られています。しかし、『通鑑』の編纂において編年体を採用し、それがそのまま後世の模範となって継承されていったことを見ると、決して古い考えに固執するばかりの人ではなかったということが分かるでしょう。
木村