福西です。『数学が生まれる物語 第1週』(志賀浩二、岩波書店)を読んでいます。2回目の記録です。
レクチャー(前に出て説明すること)をしてもらいました。以下のテキストp9についての意見と「ピタゴラス」についてです。
p9
「私たちが絶対たどり着くことのできない、銀河系のはてにあるような星までの距離も、数を使って表すことができるという驚きを忘れてはいけないだろう」
これは2章でも見ますが、筆者はここで、10,000に対しては一万という数(の名前)、100,000,000に対しては一億という数(の名前)を必要になれば作っていく、そのような具体的な数をではなく、「1,2,3…」の「…」の部分にあたる抽象的な数を話題にしています。
そして、どんなに途方もない距離であっても、その「…のどこかでとらえられるはずだ」という認識を、(数学を学ぶ以前から)人間が内に持っていることについての驚きを表明しています。そのように「内にあるもの」から数学が生まれる様子を、筆者はp2で「一筋の明るさ」「光の中」と表現しています。
Eさんは、数そのものの抽象性について、「数には、数えることと量との両方の意味があって、1kmや1個といった単位をつけて表すと具体的な量だが、1というと、たちまち抽象的になる」と発表してくれました。
ピタゴラスについて、Eさんは、「宗教的な側面の他に、三平方の定理など数学的事実についても研究し、さらに、証明の仕方など数学のもとになる考え方が広まる段階での貢献をした」という主旨で発表してくれました。
M君は授業でジュニア版の数学辞典を引きました。そして引いた内容を音読してくれました。またそれをあとで自分のノートに速記していました。
ピタゴラスやユークリッド、アルキメデスといった人たちは、調べた時はいいのですが、あとになるとまたいつ頃の人かが分からなくなります。そこで数直線を書いて時系列を補足しました。その時、B.C.という表記が、だいたい「−何年」という意味であること、そして(自然数を含む)整数の一例になっていることを見ました。
最後に、ピタゴラス音律について、以下のよくまとめられている動画を見ました。
この日、「三平方の定理」という言葉をおのずと3、4回耳にしました(^^)。
【追記】
音楽と同じで、複数の声を聞くこと、その調和を自分ではかることは大事だと思います。そこで(志賀浩二だけでなく)数学者の矢野健太郎の言葉を以下に紹介します。
今日、中学校で教えられている幾何学は、このターレスとそれにつづくピタゴラス・ユークリッド・アルキメデス・アポロニウスなどが、ほとんど完成の域にまで発展させたものです。
今日の中学生や高校生は、この幾何学があまりに抽象的だと、不満を述べることがあります。しかしここにたいせつなことは、この幾何学が、単に抽象のために抽象的なのではなくて、知識というものは、このように一旦整理することによって、またその整理された形でじゅうぶん研究しておくことによって、はじめて雄大な、ばらばらな知識の持ち主には思いもおよばないような応用の道が開けてくるということです。
─『数学の考え方』p271(矢野健太郎、講談社現代新書)
授業で、「公理」という言葉からユークリッド幾何についてほんの少しだけ触れました。多くは話せませんでしたが、上のことが私の念頭にはありました。
文中にある「ほとんど完成の域」というのは、ユークリッド幾何すなわち平面幾何についてです。ユークリッドは、『原論』の最初に五つの公準(前提条件)を挙げます。それは、「これから平面上での幾何を考えます」という宣言です。そこから出発して、「平たい机の上で三角形を描くと、ほら、内角の和は180度でしょう?」などの結果が示されていきます。つまり『原論』(1~4、6巻)に記されたもろもろの定理は、「平たい」という事実に抱かれた演繹的事実だともみなせます。
その五つの公準(前提条件)を書き換えることはできないか? つまり机の上ではなく、ボールの上で三角形を描くとどうなるか? このような考え方の前提に対する疑問は、当然いきなり生じたのではなくて、それまでのユークリッド幾何(平面幾何)が十分整理されたところから、演繹がまさに尽きんとする緊張から生じてきました。
そして、射影幾何や非ユークリッド幾何、多様体論という新しい数学が生まれます。いわゆる「曲がったベースでの幾何学」です。
たとえば極端な例として、二次関数で考えてみます。二次関数もまた曲線の一つですが、それを考える土台(定義域)は、x軸という数「直線」です。この数直線を曲げてみてください。たとえば二次関数に。そしてその上で、二次関数を描くことをイメージしてみてください!(座標変換です!) 果たしてどんな世界が見えるでしょうか。
そのような幾何学の「応用の道」の有名な例として、一般相対性理論が挙げられます。多様体論の中のリーマン幾何学というものが、アインシュタインの思考の道筋の先を明るく照らしました。彼は相対性理論を特殊から一般へ、すなわち前者の重力のある場合について考えていました。その彼が友人の助力も得て、リーマン幾何学こそが今考えている物理を記述する言語だと知った(あるいはその数学が具体化することを実感した)時の興奮はいかばかりだったでしょうか。きっと「思いもおよばない」とは、このことだと思えたことでしょう。
もちろんこのようなことは、数学と物理学との間だけに生じるのではないでしょう。「ばらばらではなく、整理され十分に研究された知識」としての学問、そのような学問同士との間からは、いつなんどき「思いもおよばないこと」が生じるか分からないのです。