福西です。2回目です。
『人生の短さについて』(セネカ、茂手木元蔵訳、岩波文庫)を読んでいます。
この日は2章を読み終えました。
Aさんは、学校で倫理の授業が始まったそうで、「倫理とは何ですか?」という質問が出ました。答えるのは難しいのですが、よく使われる字義的な「倫」という垣根の話をした後(それは学校でも説明されたそうです)、哲学と倫理、頭で考える理想とその実践という観点から、私見を述べました。
「Aとは何か」(このAには自然、動物、人間、自分、真、善、美など、様々な単語が入ります)という本質を考えるのが哲学だとしたら、それを知った上で、では人生をどう組み立てればよいか、実践に持っていくのが倫理ではないか。またそのような自分と同じく「よりよく生きようとする自分」であるところの「他者」(複数)と自分との関係はどうあるべきか。
つまり社会的に「善」とされる行動とは何か。それについての「考え」を、身近な出来事から、もしこうなった時はどうする? という有事に至るまで、具体的・現実的・経験的な「実践」を通して「さらに深める」というイメージかな、と私は思います。
来週、倫理学の基礎であるところの『ニコマコス倫理学』(アリストテレス、高田三郎訳、岩波文庫)をお見せします。
それを皮切りに、ストア派とエピクロス派のことにも触れました。
ストア派はプラトンの系譜上にあること、セネカもそれを研究していることを説明しました。2章1節~2節では、「お金儲けにあくせくするとか、公職に就くための票集めに東奔西走すること(ambitio=日本語では野心と訳されています)等々、そういったことはすべて人生ではなくて、ただ過ぎていく時間だ」と言います。セネカは、時の皇帝ネロの先生であり補佐役であり、自身お金持ちでもあって、本当にお金のない人や意見の言えない人の気持ちが分かったかどうかは分かりませんが、セネカのこうした論調には、ストア派の価値観が色濃く見えます。また単に陰口になってはいけないので、セネカの死に方について、またそれを描いたルーベンスの『セネカの死』も見ておきました。あの絵を見ると、セネカの著作を通しての言葉の重みはやはりあって、その死はセネカ自身の「火は金を試す」の実践ではなかったかと感じます。
さて、2章4節では、「忙しない人生」(セネカの目から見た)が活写されます。ここは日本語訳だけで付き合うと、くどく感じてしまうかもしれません。ただ、原文では構造的に「おお」と感じられるので、注目してみました。
quam~!
quam~!
quam~!
quam~!
hic~、hic~、ille~、ille~、ille~、
quamは「なんと~なことか!」、hicは「この者(こいつ)は」、illeは「あの者(あいつ)は」です。
「なんと富は重い(首を絞める)ことか!」「なんと弁舌は血を吐かせることか!」「なんと快楽は血の気を失わせることか!」「なんと親分は子分に取り囲まれて不自由なことか!」、「こいつは弁護を頼んでいる、こいつは証人になっている、あいつは審問を受けている、あいつは弁護している(defendit:ディフェンスしている)、あいつは裁いている」
しかし、以下のような者はだれもいない(nemoだ)と続きます。「自分自身のためにクレームを言う者は」と。(他人が取られた時間については世話を焼くのに、自分の時間については世話を焼かない)。
Aさんからは、次の質問が出ました。「なぜここで裁判が出てくるのですか」と。裁判の話が唐突に思われたようでした。実は私も分かりません。ただおそらく、お互いがお互いを利用し合い、引っ張り合う状況を述べているという文脈から、裁判(こと帝都ローマの喧噪)が引き合いに出されたのだろうと思います。
なお、この日最後に確認した一文が印象的でした。
「甲は乙のために耕し、乙は丙のために耕すが、誰ひとり自分自身を耕す者はない」(2.4)
illle illius cultor est, hic illius ; suus nemo est.
イッレ・イッリウス・クルトル・エスト、ヒク・イッリウス、スウス・ネーモー・エスト。
あいつ(ille)はあいつの(illius)耕作人(cultor)である(est)。こいつは(hic)あいつの(illius)(耕作人)。すなわち自分自身の(suus)(耕作人)は誰もいない(nemo)。
私自身は、cultorという単語と、授業の最初で話していたことから、キケロの次の言葉を連想しました。
「精神の耕作が哲学である」
cultura animi philosophia est.(トゥスクル荘対談集2.1.3)
クルトゥーラ・アニミー・ピロソピア・エスト。
これを最後に紹介して終わりました。
次回は3章を読みます。
こんばんは。セネカの時代がそうであったかは分からないんですが、
少なくとも共和政後期(キケロの時代)には選挙違反で訴えられることは良くあったようです。
選挙違反に関する法と常設審問所(de ambitu)が設置されています。
他にもキケロの古註で、属州搾取(de repetundis)で訴えられたカティリナを弁護したという話もあったかと思います(Ascon. 85C)
選挙戦の激しさについては、 丸亀裕司先生の『紀元前五三年度コンスル選挙』に詳しい一例が解説されています。
http://hdl.handle.net/10959/1007
帝政期に当てはまるかどうかわからないので当てにならないかもしれませんが、
しょっちゅう訴えられていた雰囲気がなんとなくわかるのではないかとは思います。
全然見当外れでしたらすいません。
c.f.S 様
山の学校の福西と申します。
ambitioについて、有益なコメントをありがとうございました。
共和制後期においての選挙違反の様子や、常設審問所(de ambitu)のことを、
はじめて知りました。
丸亀裕司先生の『紀元前五三年度コンスル選挙』はまた読んでみます。
福西先生お忙しいところお返事を頂きありがとうございます。
帝政初期なので、名目上は共和政が続いているということになっているかと思い、
セネカの言いようからも、恐らく共和政の終わり頃とあまり変わらないのではないかなあと、
余計なことを申しました。
ちなみに、常設審問所は quaestio perpetua と呼ばれ、
犯罪の形式ごとに複数ありました(de ambituやde repetundisなど)。
ローマの刑事訴訟については、柴田光蔵先生の、ROMAHOPEDIA J部門
http://hdl.handle.net/2433/175506
に、常設審問所の手続きや、訴追者が貴族の若者や専門職であったことなどが、
ローマ刑事法概説としてまとめられておりますので、
ご興味がおありでしたらご一読されると、より雰囲気がお分かりになるのではないかと思います。
セネカの時代は全然違ってたらごめんなさい。。。
c.f.S様、福西です。
>より雰囲気がお分かりになるのではないかと思います。
はい、ありがとうございます。
教えてくださった「ROMAHOPEDIA J部門」のpdfを印刷し、
これから楽しみに読ませていただきます。