『フランス語講読』(A・B)クラス便り(2017年2月)

「山びこ通信」2017年度冬学期号より下記の記事を転載致します。

『フランス語講読』(A・B)

担当 渡辺 洋平

 フランス語Aの授業では、秋学期の終盤からアンリ・ベルクソンの『物質と記憶Matière et mémoire』(1896)を読み始めました。本書は『意識に直接与えられたものについての試論(時間と自由)』(1889)に次ぐベルクソン第二の主著であり、またベルクソンの著作の中でも特に難解なものとして知られています。その主な主題は、序文においてベルクソン自身が語っているように、「精神の実在と物質の実在を肯定し、記憶というひとつの明確な例にもとづいて両者の関係を規定せんと試みる」ことであると、ひとまずは言ってよいでしょう。ベルクソンは精神と物質を共に肯定しながら、精神を物質に還元したり、物質を精神に還元したりすることなく、両者がいかにして関係しうるのかを、当時の科学的な知見を取り込みながら考察していきます。そのためにベルクソンが用いるのが「イメージimage」です。
ベルクソンが用いる「イメージ」は、通常理解されているようなものとは異なり、心の中にあるようなものではありません。ベルクソンにとってイメージとは、客観的な物質そのものなのです。これらのイメージは自然法則にしたがって互いに作用・反作用し合っており、したがって、宇宙とはこれらのイメージの集合であるということになります。『物質と記憶』を読むためには、まずこの点をおさえておかなければなりません。イメージとは物質であり、物質とはイメージなのです。ところが、この宇宙の中にひとつの特殊なイメージが存在します。それが私たちの身体です。というのも、私たちは自分の身体を中心として宇宙という外界を知覚しているのであり、また単に自然法則によって規定されるのではなく、外界に対する行動を選択することもできるからです。このように、私の身体とは私にとって宇宙の中心であるだけでなく、自然法則には還元されない不確定性を宇宙の中に持ち込むものでもあるのです。そして私の身体という中心に関係づけられた限りでのイメージ、これが私たちの知覚と呼ばれるものです。
以上が『物質と記憶』の第一章冒頭の大まかな内容です。『物資と記憶』では特に何の注釈もなく、イメージという言葉が物質と同義のものとして使われています。そのために誤解も多かったのか、ベルクソン自身第7版に付け足された序文において「イメージ」という言葉を定義し直しています。とはいえ、今回の講読ではこの序文はいったん飛ばし、第一章から読み始めました。序文は内容が全体に関わるために、最初に読んでも理解しにくいであろうと思ったためですが、ある程度読み進んだ時点で確認もかねて読んでみたいと考えています。

フランス語講読Bの授業では、先学期に引き続きベルクソンの論文「形而上学入門」(1903)を読み進めています。1903年といえば、ベルクソンは『意識に直接与えられたものについての試論』と『物質と記憶』というふたつの著書を発表し終え、独自の哲学がある程度確立された後の時期ということになります。そのためこの論文には、この二書によってできあがってきたベルクソン独自の形而上学が反映されており、その意味では「入門」ではなく「序説」と訳すべきかもしれません(フランス語の原語はintroductionです)。いずれにせよこの論文は全体的に抽象度が高く、とらえどころが難しい面があります。しかし丁寧に読んでいくと、ベルクソンがさまざまな事柄を二項対立的に区分していることが分かってきます。例えば、絶対と相対、直観と分析、単一と無限、内と外などです。これらの二項は、結局のところ形而上学と科学の違いへと還元されることになります。科学が分析によって対象を外から相対的に知るのに対し、形而上学は対象の内に直観によって身を置き、対象を絶対的に知ることになるのです。したがって、「形而上学入門」は、科学と形而上学を明確に区別することによって形而上学に独自の対象を割り当て、その権利を主張するものだと言うことができるでしょう。
とはいえこう言っただけでは、いまいち要領がつかめません。しかしベルクソンによれば、私たちがだれでも内から知ることのできる対象がひとつあります。それが私たちの自我(moi)です。ベルクソンによれば、「私たちは自分自身とは必ず共感する」のです。こうして「形而上学入門」は、私たちの自我や人格(personne)の探求へと向かっていきます。
私たちの意識状態は、つねに前の瞬間の状態を含みながら次に来る状態へと移行していきます。したがって、
ふたつの瞬間の意識状態をはっきりと区別されるものとみなすことはできません。ベルクソンによれば、私たち
の人格とはこのようなひとつの連続した流れであり、「持続durée」なのです。このような流れや持続は、科学的
な分析や概念によっては知りえず、内的に直観することによってのみ知りうるのだとベルクソンは言います。
直観に与えられる自我をさまざまな感情や感覚に分解してしまえば、最初の統一性は失われてしまいますし、例えば「怒り」という概念は、私の怒りも他者の怒りも同じ「怒り」という言葉の下に包摂してしまうため、その特殊性を切り捨ててしまいます。概念による分析は、ひとつの特別なものとしての人格を一般化し、記号化してしまうのです。ベルクソンはこの論文で「形而上学とは記号なしで済ませようとする科学」であると述べていますが、この定義は以上のことからも理解されるでしょう。

Aの授業は一回に約5頁、Bの授業は約2頁進んでいます。どちらの授業も受講生を募集しておりますので、興味がおありの方はご気軽に問い合わせ下さい。見学も随時受け付けています。