浅野です。
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と『哲学探究』を読みました。
多くの人は日常生活で何となく言語を使ってコミュニケーションを取っています。しかし突き詰めて考えて言語の意味を確定させようとするとコンピュータプログラムのような命題形式になります(『論理哲学論考』)。あるいは言語に普遍的な意味などなく言語ゲームをしているだけだと考えるしかありません(『哲学探究』)。
これらは自閉症的な発想のように思われます。以下の箇所が特徴的です。
21 こんな言語ゲームを想像してほしい。棟梁Aの質問に答えて見習いBが、プレートの枚数とか、ブロックの個数とか、どこそこにある石材の色や形を報告するのだ。――たとえば、「プレート5枚」と報告されるかもしれない。とすると、「プレート5枚」という報告または主張と、「プレート5枚!」という命令のちがいは、なにか?――ちがいをもたらすのは、言語ゲームでその言葉の発音がはたす役割だ。だが、発音されるトーンが別のトーンであることもあるだろうし、表情とか、ほかのものもある。しかしトーンに区別がつかない場合も考えられるのではないか。――命令も報告もいろんなトーンで発音されるわけだし、いろんな表情で発音されるわけだから。――ちがいは、どう使われるかだけで決まる、とも考えられるのではないか。(もちろん「主張」や「命令」を、文の文法上の形態やイントネーションをあらわすものとして使うことできるだろう。「きようのお天気、すばらしいじゃないですか?」という文は、「主張」として使われているにもかかわらず、「疑問」とみなすこともできるように)。つぎのような言語を想像することができるだろう。すべての主張が修辞的疑問の形とトーンをもっている言語とか、どの命令も「やっていただけませんか?」という疑問の形であるような言語。後者の場合、「言っていることは、疑問の形だが、実際は命令だ」――つまり、実際に使われている場面では命令の機能をはたしている、と言えるのかもしれない。(おなじように、「そんなことしないだろう」は、予言ではなく、命令として使われる。それはなにによって予言となり、なにによって命令となるのか?)
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著、丘沢静也訳『哲学探究』(岩波書店、2013)より