今学期の当クラスは、引き続きキケローの代表的な哲学的対話篇である『老年について』を読み進めております。受講生は変わらず継続受講下さる C さんお一方、静かな昼下がりの離れの間で、キケローの言葉を一語一語噛みしめるように読んでいく日々が毎週営まれています。
テクストは、老年に対して向けられる非難、欠点を四つに大別し、大カトーがそれぞれに対して反駁するという場面に入りました。その一つ、老年は公の活動から遠ざけてしまうという非難に対し、彼は共和制ローマの最高機関である senatus「元老院」が senex「老人」という語に由来するという事実を挙げて反論しています。思慮や理性を働かせる精神的活動には、体力に勝る青年壮年期ではなく、落ち着きのある老年期こそ最も相応しいという趣旨です。
ここで自然と思い起こされるのが παιδεία (paideia)「教育」、あるいは παιδεύω (paideuo)「教育する、教える」というギリシア語です。これらは παῖς (pais)、すなわち「子供」という、senex とは人生の過程において丁度正反対の対象を意味する語から派生しています。
ギリシア人は、子供を養い育てること、子供を一人前の人間に育て上げることが「教育」、更にはその結果である「教養」に繋がると考えました。この思想は、子供たちを育て上げる義務を負う大人の世代にその主眼を置いていることは間違いありませんが、その世代の人々も当然自身の子供の折に経験した「学び」を活かし、更に先人の知恵を活かしながら、主客双方の視点で彼らの養育を行うことになります。まさにこの点で、παιδεία,παιδεύω というギリシア語には、子供に対する態度は、人生のいかなる時点においても、そのままの形で他ならぬ自分自身に跳ね返ってくるという意味が含まれるものと思われます。
『老年について』の 26 節には、ギリシア七賢人の一人として名高いソローンのものした「毎日何かを学び加えつつ老いていく」という言葉が収められています。そもそも人間は「完全」を理想としながらも、この世に生きている間、死に至るまで、その究極の対象にはやはり到達しえぬであろう不完全な存在です。究極の「一人前の人間」に到達しえぬ我々は、たとえ老年に足を踏み入れたとしても依然として「子供」であり、終生「学ぶ」行為を続け、努力するべく運命付けられているのでしょう。あまたあるギリシア語の文法書で、動詞の活用の代表例として παιδεύω を目にする機会が多いのも、適度の音節数という「教育的」配慮は勿論として、何かしら意義深いものが感じられます。(文責:山下大吾)