浅野です。
ホルクハイマーとアドルノによる『啓蒙の弁証法―哲学的断想』を読むにあたり、チャップリンの映画の一部を見ました。
『独裁者』の最後の演説の部分などです。今見てもおもしろいと感じました。
その上で次の引用部などを読むと言わんとしていることがよくわかります。
「人々が平準化され規格化されると、他方では、個性的人物が、いわゆる指導者的パーソナリティという形で台頭してきて、それぞれの力に応じて、平準化の傾向に対立する」という意見があるが、これは間違っているし、それ自体、一箇のイデオロギーである。今日のファシストの指導者たちは、超人というよりは、むしろ彼ら自身の宣伝装置の関数であり、無数の人々の同じような反応様式の交点なのだ。今日の大衆の心理の中では、指導者とは、もはや父親ではなく、むしろ個々人の無力な自我によって途方もなく拡大された集団的投影像を示しているとすれば、それは実際に、〔現実の〕指導者たちの姿に対応している。そういう連中が、床屋か田舎芝居の役者か低俗新聞の記者のように見えるのも、いわれのないことではない。彼らが道徳的影響力を持つとすれば、その一部は、まさしく次のことに基づく。つまり彼らは、それ自体として見れば無力な個人にすぎないのだが、別の似たような個々人に代って代弁するという形で、十全の権力を体現しているのである。しかしだからといって彼ら自身が、たまたまそこへ力が加わった空虚な場所以外の何かになるわけではない。彼らが個性の崩壊を免れているのではなく、むしろ彼らのうちでは崩壊した個性が勝利を収めているのであり、いわば彼らの崩壊に対する報酬として権力が与えられているのである。指導者たちは、市民社会以後の全時代をつうじて、いつもすでに幾分かはそうだったのだが、指導という役柄の演技者に今や成りきってしまった。ビスマルクの個性とヒトラーの個性とを隔てる距離は、前者の回想録の散文と『我が闘争』の痴言を隔てる距離より小さくはない、と言っていい。ふくれ上った指導者イメージを、その空虚さの寸法へと引き戻すことは、ファシズムに対する戦いにおいて、少なからぬ関心事のはずだ。チャップリンの映画は、少なくともゲットーの床屋と独裁者の間の類似性を示したことで、ある本質的な点を衝いている。
ホルクハイマー、アドルノ著、徳永恂訳『啓蒙の弁証法―哲学的断想』(岩波書店、2007), pp.498-490